1編

SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
 SONY Myth, It's an innovation story of media

3章
言葉の記録メディアの用途と様式は共進化する


3◇ イメージを共有し共創するパソコンの誕生


3.1 イメージを正確に伝えるメディアとは

イメージの創造と共有とその編集処理ができる情報タイプとしてのメデァは、言葉しかない。
小雀や四十雀の仲間は、「ヘビだ!!」と「みんな来て!!」という言葉をつなげて繰り返し囀り、子供たちも集まってその情況を集団学習するという。

イメージこそ、過去の知識を未来の社会に繋げるための、知識の基礎である。つまり、工業社会から知識社会にフェーズがシフトするとき、そうしたメディアの技術が用途や用法と出合いどのように共進化し、どのような様相を実現して来たか。
それは、言葉とそれを記録する文字というメディアの技術から始まったように思われるが、その進化の歴史を辿ってみたい。

文字メディアが家庭に入ってきた
IBMは、1981年にIBM PCを発表したが、彼らのビジネスの本命と狙いを定めたのは、事務機のオフィスでのオフィス・オートメーションであった。

当時は、ワングやCPT等のワードプロセッサーの先発の企業の後を追うとして、オリベッティ、スミスコロナ等のタイプライタ企業や、ゼロクッスやバローズ等の事務機や、金銭登録機のNCR等や、エクソン等のオイル産業迄もが、業界を制覇しようと参入を計っていた。

IBM PCの登場は、衝撃的であった。
ソニーは、本来、ウオークマンやプロフィールテレビに見るように、徹底して機能を絞り込み、その性能と、使い勝手と、その魅力を追求したい。
これは、新しい技術を開発する者の、技術の翻訳者としての責務であると考えていた。
ただ、誰でもがイノベ―ションに参加できるような民主化が進むデジタル化の時代には、こうした勝手な専門家意識は、いささかそぐわなかった面があったかも知れない。

IBMが16ビットのPCをコンスーマに向けて発売し始めたとき、その商品企画をいわばユーザに委ねるような、”ホーム・マージ”というコンセプトであることが何よりのショックであった。
それは、ソニーのOAGp.の考え方とまさに正反対の製品のフィロソフィであった。

ただ、IBMPCの誕生も、波乱に満ちた社内葛藤のドラマがあったという。当時腕利きのIBMの新製品担当マネージャ(アナウンスメント・マネージャ)のデビッド・マーサの著書に沿って、ソニーなりの視点から、当時を振り返ってみたい。


1)ロチェスターの研究開発所のダウンサイジングへの挑戦

当初、PCの技術と市場動向を分析していたIBMは、ダウンサイジングのトレンドに対応すべく、小型システム向けのビジネを目指していたという。
1975年頃、開発部隊として極めて優秀開発研究所のある名門ロチェスタ工場に小型システムのゼネラルシステム事業部(GSD)が新設された。

そこではアップルより前に、科学技術用PCとして5100を開発した。RAMは64KBで、言語はベイシックと多次元配列データ処理向きのAPL:A Programing Languegeであった。また外部記憶装置は、カセットテープレコーダであった。
しかし、GSDには科学技術用のカスタマ・ベースはなく、GSDの営業部隊は、10倍も高いお得意の事務用の製品を売ることを望んだ。

IBMは、大型のメインフレームでは、CADというコンセプト・セリングはしていたが、有限要素用の適用プログラムも、回路解析プログラムも用意できなかった。
確かにAPLは、簡単に多次元ベクトルの処理がインタープリータで書けたが、データは、キーボードから直接打ち込むことしかサポートされていなかった。また、メインフレームのタイムシェアリングサービスでは、端末でAPLを稼働できた。
しかし、試してみると、簡単な行列の逆行列を求め、元の行列に掛けても、単位行列に戻れず桁落ちが出た。

ロチェスタの開発研究所は、5100をリファインし、GSDが得意な事務用のマシンとして、5110を仕上げた。今度は、外部記憶装置として重厚長大な据え置き型の8インチのデスケットが2台のコンポーネントをオプションとしたのである。しかし、これも不発に終わる。


2) パソコンの基本構成をとったSystem/23の挑戦

そして、遂に、コモドールやアップルと対抗すべく、ロチェスタは、”データマスタ S/23”を、GSDの本命PCとして開発しリリースした。
このIBM System/23は、IBM PCのわずか1か月前の、1981年7月に発表された。

System/23は、テキストモードのCRTディスプレイで、キーボード、外部記録デバイスは、コンパクトになった2つの8インチフロッピー・ディスクを全てを1つのキャビネットに収納したオールインワン・コンピュータであった。

プロセッサは8ビットのインテル8085で、BASICインタープリタが組み込まれていた。この目的は、専門家なしで設置や操作ができるコンピュータの供給で、約 9,000 ドルで販売された。しかし、ただ、GSDのもっと大型のマシンと併売され、営業マンは、そちらを優先したため、これもテイクオフできず失敗となった。


3)IBMワードプロセッサーのディスプレイ・ライタの挑戦

一方、IBMアメリカが持っていた伝統的なビジネス・ドメインで、1961年以来発表された電動型のセレクトリック・タイプライタがあった。その特徴は、エディソンが開発した円筒形のエレメント方式を球形にしたもので、同一の文書の途中でも異なったフォントに変える事ができた。
しかし、印字品質や修正のし易さ等の機能で、後にアメリカのビジネス用の電動タイプライタの 75%シェアを獲得したと言われる。

 価格は$10,000で、大手企業や政府や銀行、病院、自治体や弁護士事務所や各種団体のオフィスセンター向け、年間1万台以上コンスタントに販売できていた。
その代理店は、その度入や設置、教育訓練や、セレクトリック・エレメントやリボン等のサプライグッズ等で、リカーシブなキャッシュインがあり、本体の30%以上の実入りがもたらされていたと思われる。

そしてIBM オフィス製品部門は、OA元年の1980年6月にコンピュータ仕様のワードプロセッサー、ディスプレイ・ライターを開発して投入した。Displaywriter System 6580である。

中央処理装置は Intel 8086、モノクロ CRT モニター 、デチャッチャブル・ キーボード、デチャッチャブル・デイジーホイールプリンターの構成だった。価格は、7,895ドルで、月額275ドル。
ワードプロセッシングソフトウェアは。IBMの内部開発されたワードプロセッサー用専門ソフトTextpackで、これは、8インチフロッピーディスクから起動した。また作成した「ドキュメント」も100ページ以上のテキストを保存できるこのディスケットに保存できた。

Textpackは、シンプルで差し込み印刷ができ、Textpack 2では、ネットワーク、スペルチェック、および 印刷スプーリング。
 Textpack4では自動追加 ハイフネーション、列、およびより洗練されたマージが可能となり、Textpack 6では、自動脚注とアウトラインを追加しました。
その他のオプションには、多言語辞書、グラフィック、およびレポート作成機能まで進化し続けた。

しかしまさか、ソフトに弱いと思っていた日本のソニーに、使い勝手で遅れをとるとは思っても居なかったであろう。


4) ボカラトンの反乱部隊によるIBMPCの誕生

IBMの組織は、アメリカ合衆国同様に双頭の鷲であった。その一つはアメリカ本土に根付いたドメステックIBMで、それにグローバルに支配するIBM WTC(ワールド・トレード・センタ)である。
PCの動向を分析し、GSD(ゼネラル・システムズ事業部)やロチェスタから成果が出ないことで、パソコンに出遅れを気にして、本社アーモンクに圧力を掛けていたのはWTCの方であったようである。

そして、ついに1980年、トップから、「アーモンク本社の官僚機構の隙間から漏れ出した形で」、ボカラトン工場のフィリップ・ドン・エストリッジにIBU(独立事業体)を造るべし、との特命(Misston) が降ったとされている。
「IBMのPCを造って欲しい。わが社は既に出遅れているから、急を要する。完成するのに必要ならどんなことでをやってもよろしい」と。

実は、ボカラトン研究所では、所長のウィリアム・ロウが先頭となり、パソコンの新規開発プロジェクトを秘密裏に進めていた。エストリッジは自ら希望してそのプロジェクトへ異動した。その時、エストリッジは個人的にAppleIIを所有していて、既にパソコンに大きな興味を寄せていた。
そして、フィリップ・ドン・エストリッジ以下10数名の猛者達は、それから数か月で、PC事業をまとめ上げたという。
世間には、IBMの周到な指揮戦略の下、IBMPCは世に出たとされているが、もし、アーモンク本社が入念に準備をしていたら、こうはいかなかったと、デビッド・マーサは著書で述べている。

そしてIBM PCの1981年の登場は、衝撃的であった。
そのアーキテクチャとビジネスモデルは、IBMのビッグブルーを真っ向から否定するものであった。
それはまさに、オープン・アーキテクチャであり、またオープン・イノベ―ションでもあった。

CPUは、インテルの16ビットの8088の16ビットのチップセットで、OSはマイクロソフトのDOS-Vで、各種のモジュールを拡張できる内部バスを統合的インターフェースとして外部接続用にオープンした。
これこそがまさにオープン・アーキテクチャであった。それまでCPUがコンフィガレーションのセンタコンポーネントだったが、これ以降、センター・バスというネットワーク・インターフェースが、基本のフォーマット構造を特徴付ける大きな転換点となったのである。

従来IBM独自の相互運用性やデータ交換等機器やプログラムやデータの一貫性を保っていたEBCIDECの内部のコード体系も当然、無視され放棄された。
ロチェスタがコストに捉われ8ビットのCPU8085を採用したのに対し、16ビットの8088を採用した効果も絶大であった。
発売した途端、社内からだけで3万台の注文が入ったという。ただ、当初、外部記憶装置は、アップル同様カセットテープであった。

また、当初のビジネスモデルの構想も、驚嘆すべきものであった。コンフィガレーション:基本構成は、キーボードやモニタや本体を、顧客に選択してもらい、注文をイギリスのセンターに集め、そこから世界各国のベンダーに発注し、顧客の玄関にキットとして1式を届け、そこで顧客に組み立ててもらい製品を完成させようというコンセプトであったと言われる。
世界中のユーザにPCを設計させ発注させ、それをIWCのUKセンターに集め、それを世界中の各コンポーネントベンダーに各家庭の玄関先に発送させるというドラスティックなものであった。ただ、現実はそう簡単に実現できるものでは無かった。

実際には、小売ディーラのチェーン店をネットワークすることとなった。しかし、これもIBMの営業とSEによるトップダウン・セールによる直販体制はもちろん、事務機器用の代理店経由のデーラネットワークをも破壊することにつながった。
シアーズ・ローバックや台頭してきたコンピュータ・ランド等の小売り店チェーンネットワークを構築することになたった。
しかしこれにより、幾ら増産しても、スケールアップでき、売りさばいて行ける態勢となって行った。

ボカラトン工場は、以前、プロセス・コンピュータのシステム/7を開発していた。それはまるでハチャメチャのルール破りのコンピュータであった。まず、IBMの標準であった80カラムのパンチカードではなく、45カラムであった。また内部コードは、IBMのEBCIDECを無視したコードであった。そのため、メインフレームのS/360とも連携が難しかった。

ただ、このPCが、IBMの本拠であったアメリカの東海岸のポーキプシや工場群でもなく、また重厚なサンノゼの工場でもなく、フロリダのボカラトン工場からであることで、納得感はあった。
ソニーも大崎工場は、そこで開発されたシステム/7というプロセス・コンピュータを導入し、その使い難いコンピュータにリアルタイムOSを開発した経験があったからである。

ボカラトン工場は、外部ベンダーに対し、”IBM”機銘板の以外の全て外部の部品やソフトに至るまで調達した。
IBM PCは、世界を制覇し、まさにオープンイノベーションの扉を開いた。

一方、東部のIBMのゼントルマン達は、服装、スタイル、態度、物腰など握手しただけで相手を包み込むような雰囲気を、特に営業マンやSEは身に着けていた。
しかし、ボカラトン工場では、客が居ても、フロリダらしいアロハシャツで、平気で机の上に脚を投げ出し、手を振り回して明るく議論するのだった。
事実、後から出版された「IBMマネジメント」には、ボカラトンには、”IBMのシベリヤ送り”になった兵士が多かったと暴露している。
つまり、イノベ―ションは、周縁からひょっこりと誕生する典型例でもあった。


5)IBMPCフォーマットの標準となったエプソンの登場

IBMは、唯一自社開発のBIOS:周辺機器のドライバルーチンも、オープンにし出版した。この狙いは、著作権の確保であった。つまり、IBMPCを構成するコンポーネントや部品は全て外部のOEMベンダー製で、純正部品は「IBM」の3文字バッジだけと言われた。
そして知的財産権としての特許権と著作権が、コピーマシンから防御できる障壁として用意されていたはずだったのである。

しかし、公開されたIBMPCの周辺機器の制御用インターフェース仕様のため、周辺機器のコンパチブルメーカが怒涛のようになだれ込んできた。

特に、日本は、特許法が遅れて先進国入りした結果、先進国の特許の権利を制限したい意識が強く、権利者が侵害の疑義を訴えたとき、身の潔白を明かすRequest to Discobery義務を規定していない。アメリカでは、これにベスト・エフォート義務も課されており、それを守らなかった場合には、3倍のペナルティが科されるが、日本では、そうした義務は現在でも規定されていない。また、基準となる損害賠償のペナルティも低いままである。

日本の著作権法でもその対象がポジティブリスト方式で、その該非の判断は、役所の担当者の腹の内にあって、判断が出てくるのに何年もかかる。
つまり事前的で予定調和的な制定法で、技術の進化や社会環境の変化に対応できないため、法の運用でカバーせざるを得ず、そのため解釈論となり、本音と建前にずれが生じる。
ビジネスに関して日本は、官僚性が強いサウジ・アラビアや中国と同様、決して明文法とは言えない側面がある。
こうした知的財産権に関する立法の遅れが、現在の日本からベンチャを阻害し、デジタルイノベーションが生まれ難くなっている条件の1つとなっている。

ただ、エプソンは、IBMに向かって、正面からIBMPC向けプリンターベンダーとしてアプローチした。
エプソンは、諏訪精工舎時代に、そのプライマリーベンダーとしてプリンタにOEM供給することに成功していた。後にエプソンの専務となる相澤進は、オリンピックの陸上競技のタイム計測機を開発し、それを印字する小型システムを開発した実績を持って、IBMPCのプリンターに売りこみを掛けた。
彼は、プロトタイプを片手に、飛び込んだ。そして幾つかの指摘を受けることができた。

その1週間後に、その全て対応した改善した試作品を持って届けた。エストリッジは、それを見て即決した。
相澤は、「そうした指摘を予想し、次の試作品を造って置くように諏訪精工舎に指示していたんだ」と語っている。

そして、諏訪精工舎から独立したエプソンは、IBMPCの成長と共に、インクジェットプリンターを開発し、世界に貢献し、大きく羽ばたいて行った。
また、圧倒的な低電力のCMOSを世界に先駆けて開発している、


3.2 IBM PCフォーマットのコピー・マシンの登場

IBMは、名前をエレクトリック・プリンタの「エプソン」と変えたエプソンから、価格がドラスティックに安いプリンタの登場にびっくりしたという。

それは、プリンタばかりでなく、物理的にマザーボード上のバスラインまでオープンになったインテーフェースで、互換性のある周辺機器は、あらゆるメーカがそこになだれ込んできた。
そして、すべてのIBM PCフォーマットの周辺機器の価格の下落を引き起こして行った。

そして遂に、IBMPCコンパチのパソコンまでの登場したのである。
そうした企業の中には、エプソンのドライバー・ルーチンをそっくりコピーしたばかりか、IBMが犯したBIOSのバグまでそっくりコピーしたものまで現れたのである。
このハードの価格低下の波は、安い日本勢の攻勢が、やがてIBM本体におよんでリスクの警鐘を鳴らすことになった。

こうした情勢に対し、IBMが採った戦略は、徹底した低価格志向のIBM PCjr:PCジュニアは、1984年に発表したIBMの本気の家庭向けコンピュータだった。
フロッピーは、5.25インチを1台内蔵していたが、商業的には失敗作となった。Teledyne Technologies社によって製造されたキーボドの手応えや感触は、最低と評価され、IBMはキーボードでもフルラインアップであると皮肉られた。

ただ、こうしたオープンとなった供給ネットワークと、販売ネットワークの、両端のスケールアップ現象は、いわゆるイノベ―ションの「死の谷のギャップ」を超えた先に構えていた「トルネード現象」を巻き起こす典型例となったのである。


1) IBMPCの標準コンフィギュレーションの確立

オープン・アーキテクチャというフォーマット形式は、いわば世界中の衆知を集めて集合知を形成するプラットフォームとなった。
それは、モノの新しい構成や新しい作り方と共に、モノの新しい用途や新しい用法をマッチングする探索と行動とそのイメージを共有する集合知メカニズムを発揮するプラトフォームとなったのである。

IBMPCは、まず、ビジネスユーザー向けの拡張を意図しPCXTへと進化させた。
IBM PCXTは、1983年3月、ハードディスクドライブ搭載モデルで、「IBM Personal Computer XT 」としてリリースされ、後にフロッピーディスクのみのモデルが出された。

IBM PCXTは、当初は128KBのメインメモリ(RAM)、360KB両面の5.25インチ・フロッピーディスクドライブ、20MBハードディスクドライブ、マザーボードには4.77MHzで稼働するインテル 8088 マイクロプロセッサと、オプションのIntel 8087 数値演算コプロセッサ用のソケットが搭載された。

そして、遂に、IBM PCのフォーマットがデファクトとなるコンフィガレーションを確立するモデルが誕生した。
こうして、パソコン産業の、世界的水平分業体制がIBMの手から離れて、成長し完成して行った。
これこそが、知的産業時代のデファクト・スタンダードのフォーマット成長の筋道であった。


2) IBMPCのフォーマットの旅立ちと成長

1984年、20286 CPUと16ビット拡張バスを搭載したIBM PC ATが発売され上位モデルとなった。
これが、IBMのPCフォーマットを確立するIBM PC ATに進化した。
正式名称は「IBM Personal Computer AT」で、ATはAdvanced Technology(先進技術)を意味する。

PC/ATは、IBM PCおよびIBM PC XTの後継機種として登場した。Intel 80286を搭載し、システムバス(拡張スロット)を16ビット化し、ビデオ(グラフィック)にEGAを搭載した。

[図9.23]
OutlineShape1
その典型的な構成は、①5.25インチを2台内蔵した本体、②80文字が16色表示可能なEGA:640x350ピクセルの画面解像度と16色を選択して表示できるカラーモニタ、③プリンタは標準となった別売のエプソンのインクジェットプリンターという今に続くフォーマットであった。
初代IBM PCと同様に、オープン・アーキテクチャを採用し、内部仕様の多くが公開した。そこから多くのメーカーからPC/AT互換機が発売されて育って行った。

PC/ATの互換機のキラー・アプリケーションとそのソフトウェアは、やはりクロス表の数値を処理する表計算ソフトで「Lotus 1-2-3」であった。
アメリカ合衆国では、税務計算の必要性やApple II用アプリケーション「VisiCalc」などのヒットなど、表計算ソフトが受け入れられる下地があった。「1-2-3」は1983年にIBM PC用のアプリケーションとして登場したが、PC/ATの性能をフルに引き出すことで、互換性を重視した「Microsoft Multiplan」をはるかに凌駕する再計算スピードや、豊富なアドオンによるカスタマイズ性の高さをセールスポイントとしてアピールし、大ベストセラーとなった。
互換機メーカは、PC/ATとの互換性よりも「1-2-3互換」(1-2-3 Compatible)を売りにするほどであった。

マイクロソフトは、IBMによるPC DOSの権利譲渡の要求を頑なに拒んだ。逆に、自社ブランド (MS-DOS) でのオペレーティングシステム (OS) の各社へのOEM供給や単独販売を行うようになった。
これにより、MS-DOSはCP/M-86との競争に勝利し、また互換機によるIBM純正機の市場シェア低下という結果をもたらした。

また、インテルも半導体メーカとして、ICTに繋がるPCの発展の両輪となったのは、マイクロソフトと共に、ウインテルと並び称されるまでになった。
また、IBM PCが、そのコアとなるオフィス用途と、その用法してワードと表計算のスプレットシートであることを見抜いたのも、アップルとマイクロソフトだけであった。

PC/ATの正当なフォーマット・リーダとなったのは、コンパック:Compaqだった。コンパックは、カスタマー・ベースを引きづられる必要がなく、コア用途に向け素直に、PC/ATのメモリー領域をどんどん拡張して使いきって行った。
そして、やがて、そのPC/ATのフォーマットは、コンパックを吸収したHPに引き継がれて行くことになるのである。さらにHPは、互換機のプリンターでも最大のベンダーの1つともなるのである。

また、ホーム・マージという顧客に商品企画を担当させるというビジネスモデルの文化遺伝子を受けついで、元祖BTO:Build To Orderというビジネスモデルを発展させたのは、互換機メーカのDELL コンピュータであった。
ただ、DELLがこのビジネスモデルを確立するためには、ただ、良品率の高いPC本体ベンダーとのサプライチェーンを構築する必要があった。
世界の工場から顧客に届いた時の品質状態まで管理するビジネスモデルを開拓して成功することに手を貸したのは、1983年以来、ソニーのMSXやSMCのPCの主力工場であった長野の安曇野工場であった。DELLは、その後ソニーからシンガポールのベンダーに供給元をシフトし、育って行った。

ソニーの新製品開発のマネジメント技術であるF-CAPsの3文柱の一つに、デザイン・レビューを含むプロスペクティング活動がある。これには、ユーザの立場に立った、商品企画自体の評価も含まれている。
”ホーム・マージ”という商品コンセプトは、顧客の要求を顧客事態に決めさせる自由度を許す反面、顧客に商品企画活動を手伝ってもらうことを意味する。


3)IBM最後の挑戦で3.5インチFDDを採用し籠城

IBMPCの売上は全社の1/3にも達した。もはやIBMの将来を左右する恐竜に成長し、IBMエントリー・システム部門は1万人を雇用する部門になっていた。
また、IBMの自慢の事務部門のワードプロセッサーのワード・ディスプレイも、ハードから撤退し、IBMPCに移植されソフトとしての短い生命を繋ぐことになった。

こうして、遂に1987年4月、IBMは、PS/2 として、正気を取り戻したようになって本気で反撃を開始した。
この時に至って、IBMは、ようやく3.5インチFDDを採用したのである。

CPUに80386、拡張MCAバスとし、グラフィックにVGAを採用し、純正OSとして、IBM DOSおよびOS/2とした。
主に企業向けだが、後にはノート型のThinkPadなども追加した。
基本構成は、VGAディスプレイ、3.5インチ・フロッピードライブ(720K/1.44M)が装着され、MCAバス従来のバスとは互換性が無く、キーボードおよびマウスインターフェースもPS/2ポートとなった。

PS/2ではFDDや電源ユニットさえもケーブルを用いず、専用のプラスチックレールを持つスロットに差すだけで接続が完了するという、徹底したモジュール化思想が適用された。
そしてこれが、その後の典型的PCの構成となった。

ただ、その整然とした筐体構成はPC/AT互換機に比べれば瞠目すべきものであったが、モジュールのほとんどはIBM純正品しか入手できない専用規格であり、融通が利かず高価となった。
また、周辺の互換機器には特許ライセンス料が課せられ、MCAは普及できなかった。

ソフトウエアも、コンパックなどによるPC/AT互換機が台頭し始めていたPC業界に対し、大胆で野心的な仕様変更を伴うモデルチェンジは、IBMの主導権回復を意図したものであったが、OS/2は広くは普及しなかった。
また、IBMの大半のIBM PC系用のソフトウェアはPS/2でも使用できたが、他のソフトベンダーは、上位互換性へのバージョンアップが必要となった。ただ、その時にはソフトもデータも既に、市場はAT一色に染まっていたのである。

こうしてIBMは失った市場を取り戻す為、IBM PS/2によるオープンイノベーションからクローズドアーキテクチャ路線へ180度の方向転換を企図したのであったが、そのポリシーの転換は、IBMにとっても、大きな副反応をもたらすことになった。

つまり、IBMがようやく3.5インチを標準装備として認めたとき、すでに、IBMPC/ATの主導権は、市場に渡っていたのである。
ただ、ドン・エストリッジは、本社の副社長に抜擢されていた1985年8月、突然、不慮の飛行機事故でなくなった。妻とプロジェクトの数人の仲間も一緒だった。48歳の働き盛りであった。


4)エディソンの規格が日本でVGAフォーマットになった

日本に来て、漢字が横16ドットで表示されるようになると、VGAの640ドット/ラインから、40文字/ラインとなって、NECのPC-98シリーズに採用され、これがプロジェクタとのコネクターでも使われるVGAコネクター規格として、その後の世界標準となった。

ただ、このいわば640ドット/ラインというVGA規格のパリティは、エジソンが確り研究して確立していたものであった。それは印刷の領域のもので、1方の映像と技術屋にとって、なかなか超えることが難しい壁でもあった。
エディソンが決めた、タイプライタのノーマル・ピッチという標準は、ヒトの目の解像度と、ヒトが1枚の紙に書かれた文章のコンテンツとどのように関わるかと言うヒューマン・メディアインターフェースの研究に基づくものであった。

それは、アメリカのレターサイズ、ヨーロッパのA4サイズ、そして日本の美濃半紙に共通の約幅8インチ、8寸で、高さ11インチの紙型であった。そして、そこに鵞鳥の羽根かそれを模したGペンか、あるいは狸の毛を揃た毛筆かは問わず、手に持って構え、紙に書き、そこを指さし、書き足し、修正する紙との交互作用動作するコミュニケーション手段であった。
つまり紙とヒトの目との距離は、手が届く13インチだこれもパリティであった。

1方、ヒトの目の解像密度は、目からの識別角度で定義される。見分けるヒトの視力は、1.0を標準とされている。

エジソンが、ノーマルピッチ:標準文字間隔としたのは、1インチ当たりアルファ数値で10文字だったが、それこそ、ヒトが読み易いパリティであった。つまり8インチ幅で、10文字であれば80文字/ラインであり、1文字あたり8ドットであれば、80X8=640ドット/ラインが、VGAを世界標準としてPCにも引き継がれていたのである。

この単純なパリティを無視した多くのイノベーションへの挑戦の討死が相次ぐ惨状をもたらしていた。
その代表例が、マイクロソフトが、インターネットで打ち出した「インターネットテレビ」である。
ビルゲイツは、VGAのモニタでなく、どの家庭にもある通常のテレビをハード・プラットフォームとし、インターネットのコンテントを観ることができる方式を考えた。つまり、インターネットのWEBサイトの文字をサーバを介してそのフォントを太くし大きくすれば、テレビでもフリッカーもなく見えるのではないかと。それが、” インターネットテレビ”のコンセプトであった。
ただ、GIF(Graphics Interchange Format)に埋め込まれた文字は、サーバでは変換できなかった。1995年頃から始まったこのサービスは、10年間以上挑戦され、数千億円もの投資をし、数万件の訴訟を受けたようであるが、水泡帰した。
ソニーを含め、エディソンのパリティに挑戦し敗れた例は、1ダース以上に及んでいる。

また、漢字のフォントがハードでディスクに収納されると、NECのPC-98が守られていた、漢字の壁があっという間に崩れ、日本勢は、ドメスティク市場に封じ込められる結果となった。

とはいえ、IBMがソニーの3.5インチMFDを買い付けに来たときは、まだ、威勢が良かった。
彼ら、ソニーとNDAは結ばないと言った。もし、ソニーが売りこみたかったら、その用途が示すアドバンテージを説明せよ、また、その用法が如何に優れているかメリットをそのベストモードで説明せよ、そしてソニーが説明した一切:soulry の情報は、IBMにとっての守秘義務を負うものではない、ということであった。メカトロ事業部は、びっくりした。

それまで、既に多くのPC互換機ベンダーが守秘義務の条件ながら、その先の手の内を開示して来ていたからである。こうしたキーデバイスを手にして、世界を制覇したB2Bベンダーには、世界最先端の情報が、自然に流れ込んでくるのであった。
その矢先のIBMからのNDAを否定する態度は、アップルのスティーブ・ジョブスとはまさに、正反対のものであった。
しかし、IBMに売りこみたいメカトロ事業部は、ぎりぎりの3.5インチの技術展望を開示したのだった。
結局、IBMも時の流れに逆らうこともできず、その採用を決めざるを得なかったのである。
ソニーの法務部も驚いたが、IBMのエリート法務部門も凄かった。


3.2 ソニーとIBMの関わり

1984年ころ、ソニーのOA部隊は、事務機器の販売代理店のリクルートに精を出していた。
ソニーのフロリダのOAディーラの奥さんから妙な話を聞いたという連絡があった。このデーラは、不動産屋もやっていたのだが、「最近IBMのお偉いさんらしい方が見えて、ヨットハーバー付の$100万位の別荘を探している話しが毎週2~3件以上ある」とのことであった。

多分、IBMでもアメリカの東側には、いわばIBMでも格調高い由緒ある工場が多い。特にアメリカを統括するIBMの本社は、オーモンクにある。また、顧客や社員の教育や研修施設は、山全体が別荘群のようなポーケプシーにある。ボストンには、IBMの技術研究のショウウインドウと言われ、MIT等の大学とも連携しているワトソンリサーチ研究所があって、当時IBMがS/370で掲げていたバーチャル・メモリーやバーチャル・マシンの共同研究をしていた。

そこからネクタイを締めたゼントルマンの幹部が大勢送り込まれているのであれば、それは、IBMが、暴れ者のボカラトン工場のいわば制圧に乗り出したのだろうと推察された。

よし、これで、IBMPCは、行き詰まるとの予感を得た。IBMのディスプレイ・ライタは、すでに撤退する様相を見せていた。
PCのキラー・アプリである表計算ソフトと、ワードがPC特有の面倒なプルダウン・メニューからコマンドを引張り出して進める多段階の手順はすたれるのではないか?
後は、PCをどのように捉えるかであるとさえ思えてきた。

ソニーのs/35は、8ビットであったが、IBM PCは16ビットであった。ソニーアメリカの営業のマネージャ達は、S/35の売れ行気が伸びない理由をこのビットサイズのためであるとした。
しかし、OA事業部は、機能や性能や使い勝手は、IBMのディスプレイ・ライタを遥かに凌駕している評価が権威のある雑誌かも発表されているし、ビット数は関係ないと説得したが、ただ、そうした下世話の評価は、厚木の情報機器本部の上層部にも広がって行った。


◆ IBMとグラフィック・ディスプレイ・モニターの出会い

IBMが、ソニーにスーパーファインピッチのトリニトロン・モニターがあるのを見つけて引き合いがあった。NCCやCOMDEX等で、IBMは、ソニーの19インチのGDM-1910に目を付けたのである。

表示ドット数は、1980X1024だった。放送局用モニターは。水平が320本だから4倍以上である。
さらに放送局用モニタと違って、文字を出しても画面がチラチラとしないためにはプログレッシブ・スキャンにしなくてはならない。
映像では、本来530本の垂直の線を250本づつずらして毎秒30枚フィールド画面を2回画いてヒトの眼の残像効を使うラインスキップ・スキャンニングという技が仕えたが、これで静止画の文字や表等の画像意を出すと、フィールド・フリーカが出てしまうのである。つまり文字ではフィールド当りのビーム量の総和が異なるために、フィールドフリッカーが出てしまうのである。
これを避けるためには、忠実に手抜きしないで、スキップしないで、プログレッシブでのビーム・スキャンニング方式で画面を構成しなくてはならない。
つまり、水平方向で1024ドットを打ち終わったらすぐ下に映り、また2024ドットを打ち終わりと、垂直方向で1980ドットになるまでその順番でビームをスキャンしなくてはならない。

毎分15,750回の左右偏向が、その4倍の速さで偏向させる必要があった。でも、当時使っていた2SC-807というトランジスタで振ることができた。広角競争は、パワーを喰うし、ちょうど1973年のオイルショックがあって、90度に戻っていた。
また、トランジスタも市場が広がり、コストが下がり、ペレットも大型化が進んで、高い周波数領域をカバーできるようになって行った。
価格はソニーの付け値の40万円以上で、いきなり1,000台の発注を受けた。

アップルからは、13インチのCPD:コンピュータデスプレイとしての注文が来て納品した。アップルはそれまでのシャドウマスクを全てトリニトロンに切り替え大量の発注に繋ながった。

動く映像用と違って、動かい画像の文字や表をきちんと映すモニタは、通常の考えと違って、それを駆動する半導体にとっては、また大きな壁となったのである。

こうして、CPDは、映像でも画像でも、文字や罫線が入った図表でも映し出すことが可能な、マルチメデイアディスプレイとなったのである。
また、パソコンも、CPUも高速になり、内部バスもDRAMの読み出し速度も上がって、マルチメディアが処理できるように成長したきたのである。
後は、外部記憶装置や、その先に巨大なデータウエアハウスやそれを結ぶ高速ランシステムのネットワークで結ぶことだけが残っていた。

スヌーピーの3兄弟の長兄に当るピクチャプロセサーにプロジェクトリーダとなったには、IBMからソニーがリクルートした井深亮であった。
井深亮は、親父の井深大の思想を深く理解しており、また、ソニーの中では、少ない”インフォメーション・フロー・マッチング”について、またコミュニケーションについて、そこの配慮を些か欠いたタイプコーダに着いて、早期から疑問を提起していた一人であった。
そして、動く映像メディアに比べ、動かない画像こそ、セルフペース・ラーニングにとって大切な情報タイプであるという考えを理解していた。
そのため、ピクチャー・プロセッサーの用途として、単なるエンタメ用でないラーニングシステムに関心を寄せていたのである。