1編

SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
 SONY Myth, It's an innovation story of media


3章
言葉の記録メディアの用途と様式は共進化する


4◇ 3.5インチフロピーデスクの開発


4.1 ランダムアクセス可能な記録メディアがPCを育てた

コンピュータ用に、ソニーの3.5インチのマイクロフルピーに目を付けて引き合いに来たのは、ヒューレット・パッカードのデア・ハックボーンだった。
彼が目を付けたのは、Hp用に既に立ち上げようとしていた5.25インチのフロッピーディスクではなく、ソニーが、英文ワープロ用に出した3.5インチのMFDだった。
それに続いて、アップルのスチーブ・ジョブスがこれを採用しようとしたのである。
これをつないだのは、新しくソニーアメリカにCBSレコードからリクルートされたミキ―・シュルフォッフが、OEM用に採用したケビン・フィンという自動車部品の企業からリクルートした男だたった。

OA事業部長は、IBMのトップに働きかけていた。しかし、設計課長や企画課長は、最初にパソコンのトップブランドのアップルか、計測器のトプブランドのHP、そしてワープロのトップブランドのワング、そうすれば、内部官僚制の強いIBMも採用するに違いないと踏んでいた。まさに絵に描いたように、HPが真っ先に名乗りをあげ、ソニーアメリカのビン・フィンの働きかけもあってアップルが続いたのである。

こうした企業は、ブランド自体が、先進技術企業であるというイメージを身に纏った成長にコミットした幸運な業界で幸運なミッションを社会からも期待された企業である。
アップルは、3.5インチMFDの後、ソニーの9インチのトリニトロンモニターも採用することになる。


1) 3.5インチの概略構想と原理試作 

中山正之が3.5インチのフロッピーの開発を、親プロジェクトの英文ワープロのプロジェクト・オーナであった社長の岩間に念のため、了解を採りにいった。
そのとき、岩間は、「それは良い。しかしこれからはソフトウエア―が大切になる」と言った。
しかし、中山正之は、それでトップからの了解が得られたとして、フロピーの開発に取り組んだ。中山には、東北大の永井研究室で研究した磁気記録に関する基礎知識とともに最新の実践的な技術知識を持っていた。仙台工場のOB逹とも旧知の中であった。

彼はすぐ、仙台工場から、映像用磁気テープの切れ端と、そのヘッドを分けてもらい、試作に取り組んだ。チームは、メカ屋の佐藤隆一と二人だけで、気の合ったチームのスタートであった。
このとき、中山は、3.5インチフロッピーデスクドライブの大キサを、厚紙で10cmX10cmx3cmと概略の構想をイメージした。

やがて、ケースもそれに合わせて、内部のメディアの直径は9cmであるとした。
企画担当も、そのサイズが、アメリカのアメリカの通常の郵便封筒に収まることを確認して、中山の決定をサポートした。

IBMは、1970年にハードデジスクを、1972年に8インチFD:フロッピー・ディスクを開発した。その頃IBMを見学した井深大は、「これからは、テープの時代ではなく、ディスクの時代になる」と語った。

企画担当は、当時は8インチのフロッピー・デスクが圧倒的な市場を造りつつあったが、1976年IBMに居たアル・シュガートが独立してシュガート社を興し、5.25インチFDを開発していた。IBMは、80KBから始まり、1976年には800KB1977年には1.6MBと進化させていた。
一方5.25インチは、1976年100KBからスタートしていた。

IBMから来た林義男は、ワープロ用として、アメリカの標準文書となるレターサイズ用で手紙を書くには、2000文字あれば良いが、きれば4000文字が記録したいと言った。4KBである。

しかし、中山は、出来るだけ、大きな容量を目指したいと考えた。IBMの8インチのFDを見た時その色から磁性材料がガンマデマタイトであるが、既にビデオで使っていたもっと線記録密度(トラックの線方向記録密度)を稼げるコバルト・ガンマ酸化鉄が有望と見た。実際、容量は1.5倍大きくできたのであった。そして目標を1MBとした。

中山は、磁性材料もビデオのものを援用したが、記録再生用ヘッドも、ベータの材料や形状や成形法の利用を考えた。
仙台工場では、組織がテープとフェライト部品に分れていたが、中山には、それぞれに旧知の仲間がいて、その要求にすぐ応えてくれた。

ただ、ベータでは、テープが長手方向に走り、それを斜めにスライスするようなトラックで記録し再生する。今度は円盤がスピンドルモータの軸で回転して回るので、軸を中心にして、同心円状のトラックで記録し再生されることになる。ヘッドは、テープの時はいわば円筒形に仕上げれば良かったが、今度は球面状に仕上げる必要があった。

そして、1979年夏ごろ、原理試作が完成した。
ちょうど盛田がウオークマンの第1号機を開発した時季で、扁平モータは未だ開発があまり進んでいなかった。
厚さが3センチ位分厚くて、子供番組のぬいぐるみのテレビ番組の”ゴロンタ”のニックネームを林義郎が着け、そのまま開発のコードネームとなった。


2) 芯金のチャッキングこそキーテクノロジーとなる

記録容量を稼ぐには、一度記録したトラックの上を、精度よく再生ヘッドが外れないように、走行しなくてはならない。
中山は、従来のフロッピーが薄いプラスチックのフィルムに、1インチ近い大きな穴を空け、そこにテーパの着いたスピンドルモータの回転軸を差し込んで回転させる方法に違和感をもっていた。
ベータでも、テープは、何遍も使うとスルメの様にだらしなくなってしまう。これでは、精度良いトラッキングが採れずデータの読み出しエラーとなってしまう。

このプラスチックの円盤に、金属のセンターハブを接着する案が出された。
それは、誰の眼にも明らかに優れた方法であるとの認識が共有され、エンジニア達のイメージが湧き出ていった。そこから細部に関する各種のアイデアが次々と出されて行った。
1)センターハブにトラッキングするガイド穴とそれをスピンドル軸の回転角と位相同期をとる仕組み
2)メディアのガイド穴と本体のガイドピンが安定して噛み合う構造
3)センターハブをスピンドルドラムを磁力を使うことで片面だけでチャッキングするための構造
4)センターハブを少しへこませて、保存時にも平らで寝癖がついてしまわないようにし、安定走行を妨げないようにする構造
5)チャッキングでは磁力を使うことができる金属で、データの記録再生時の磁化に影響を与えない構造と材質の決定
等などであった。


3) カセットタイプの薄いフラットなケースの設計は可能か

原理試作ができるとすぐ、エレキの田中義礼が量産設計のリーダとなりメカの高橋廉やエレキの嘉本秀年や新人を集めてチームを組んだ。
こうしたアイデアは、課長の田中義礼や若いエンジニア達から面白いように次から次へと出されて行った。
そして、里親の情報機器本部から加藤の下に異動となったメカ屋の松山政義が次長として、彼らの指導に当たった

松山は、その昔鬼と恐れらえた森園正彦の下で、並み居るメカ屋のなかでも「鬼のメカ検」と、メカ屋集団から恐れられていたが、森園が厚木で放送局向けのプロ向けビジネスを開始するとき、一緒に厚木に移っていた子飼いであった。

田中と嘉本がフロッピーデスクは、柔らかいプラスチックの円盤状の磁気媒体のレコードを、厚紙の封筒に入れて、さらに外側にも、厚紙の鞘封筒に入れたフロッピーの名前の通り、全体も柔らかいメディアであったが、最初の会議で、これをカセットのようにできないかとの声が出た。これにも誰も異論は無かった。
ただ、その利点は明確ではあった。当時のフロピーのエンベロープに書かれた優位事項や禁止事項は、7~10項目もあったし、ほぼ全員が、その不便さを感じていたからであった。ただ、その実現は、簡単では無かった。

カセットをプラスチックで薄くしたメカ図面を前にして、松山が口を開いた。
「この薄いカセットのケースは、平らに成形できるのか、その設計思想はどうなっているか?」と。
若いメカ屋はきょとんとした。「こんな薄いものを加工して、平面を出すのは、不可能ではないか?もっと厚くし固くするか、最中の皮のように厚くしてかつ真ん中を膨らませるかそうした考え方のどちらを採るかだ」。

担当者は、出来るだけ薄くしたい、樹脂を熔かして型に流し込んで冷やせば何とかなるのではないか」と考えていた。
しかしそう指摘されると、全くその通りだが、最中スタイルは採りたくない。かといって固い分厚い弁当箱にもしたくない。かといって薄く平にすれば、中のプラスチック円盤に触れて摩擦が起きて、回らなくなる。

松山は、黙って時間を待った。みんながその図面を見ながら、頭のなかにイメージしたメディアとヘッドとスピンドルが、同期孔で駆動される動作状態をイメージした。
誰かが言った。「薄くしておいて、カセットを指し込んでスピンドルの上まで行き、そこで下に下げますね。その時スピンドルの天辺がこのカセットを少し押し上げるようにしたら如何でしょうか」。皆が手を打った。「それで良い」と松山が頷いた。

ただ、その後スピンドルが回ってカセットの上側を削ってしまう事故が出たが、予めそこにテフロンのパッチを当てて置くことで、簡単に解決した。
これで、後に競合メーカから出てくる3インチのFDに比べてスタイルも扱い方も圧倒的に優位になったし、重要なエッセンシャル・パテントとなった。


4) 静電チャージが放電してノイズ信号となる

物理的な電子信号は、本来、アナログ的に波打つ信号である。このアナログ波形をどこかのレベルで検出して、【0か1】のデジタル信号に判別する。つまりアナログとデジタルの中間に、ピーク波形を処理するプロセスがある。
これは、まだデジタルとは言えないいわばアナログの大キサやピッチ信号を扱う段階である。当初のレーザーディスクは、レーザでプラスチックに穴を空けてその反射量を読み取っていたので、まさにアナログ同様の中間段階である。
当初、電気屋達は、アナログ回路が専門で、アナログからデジタル信号への変換の専門家は少なかった。デジタルで記録した信号をデジタルで再生するのであるから、アナログと違って、記録再生による誤差は起きないのではないかと言う電気屋も居た。

しかし実際は、そうは問屋が卸さない。そうした誤差、つまりエラーが続出したのである。そのどっちつかずの理解では起因や症状の診断に戸惑った。
そして、ヘッドと磁気シートとの摩擦による蓄電と放電ではないかとその症状を着き止めて行った。では、ヘッドに溜まった静電気をアースに落として逃がせば良い。
若い電気屋は、女子の作業員に銀を溶かしたシルバー・ペイントを買ってもらい、ヘッドのコアからそれが埋め込まれている丸く研磨されたセラミックに沿って塗って実験で確かめた。
エラーは減らなかった。夜になっても効果が確認できない。

そこを、ベテランのエンジニアが通り掛った。若いエンジニアは、自分の考えた起因と対応策の効果の仮説を説明した。
プロのエンジニアは、いわば発電量とアースのシルバーペイントの抵抗のバランスを見て、単純化された回路図上でのシミュレーションと現物とは、異なるのではないかと指摘した。一件落着であった。
やはりコンピュータシミュレーションでも、そうした実際の現象を理解した上で、経験に照らして等価回路にモデル化しないと、効果的対策や開発は、不可能である。当時から、電気工学を卒業しても、半田ごてを使ったことが無く、コンピュータシミュレーションしかやってこなかった学生が出始めていたのである。


5)ヘッドと磁気シートを如何に接触させるか

記録再生用ヘッドを磁気シートにどのように密着して接触させるかの議論が成された。
カセットの上からヘッドが降りてシートに当り、それを下から押し上げて安定した接触状態を実現する必要がある。そのためには、カセットの上下に窓を開けなくてはならない。

従来のフロピーは、埃を嫌っていわばこの穴をカバーするためにに2重封筒にしていた。もちろんカセットを紙封筒に入れれば良いが折角プラスチックのカセットにしたのだから何とかならないか。
そこで穴をヘッドが当れる片面だけとし、そこを小さいステンレス板でシャッターでカバーし、ドライバーに挿入するとき横にスライドしてズラシ、出したらまたスライドするシャッタの案かでた。

それは、それで良かったが、では、それでシートとヘッドをどうしたら、密着させながら回転できるのか?
またすぐアイデアが出た。シートの反対側に山形のスプリングを入れ、回転する時、シートが薄くても、山形のバネの力を使い早く回転するシートが頑張ってヘッドに密着するのではないか?
ちょうどその頃、剛性の強いアクリル系のプラスチックが見つかったのである。それでまた1件落着となった。

しかしその後、アップルのスチーブ・ジョブスから、ソフト・イジェクト、つまり、コンピュータ側からの命令でのみMFDが取り出せるようにし、ヒトが勝手に取り出せないようにして欲しいとの要請が出た。
確かに機械が読み書きしている最中にいきなり人が介入して取り出すと、データがエラーとなる可能性があるし、何より磁気ディスクやヘッドを痛める可能性すらある。
その検討の最中で、シャッターの開閉も自働でやろうとの検討を始めた。全員に田中が、アイデアを求めた。そして見事に、薄いシャッターに収まる細いワイヤーのスプリングを仕込む案が出された。

Hpやアップルから、OEMの引き合いが来て、ソニーのトップに、3.5インチに関する情報が届き始めた。
加藤は、盛田に報告に行った時、この手動のシャッターバージョンを持って行った。盛田は、それを手にして、シャッターをパチンパチンといじくっていたが、これは自働にならないか、とアドバイスをした。加藤は、確かにそうですね、と引き取って、少し経って、出来ましたと報告した。
それで、加藤は、会長の盛田を巻き込むことに成功したのである。3.5インチFDが後に井深賞を得たとき、盛田はその時の自分のアイデアを語っている。上司を如何に使うか、これも優れたプロのサラリーマンの能力である。


6) ラベルの面積を5インチの3.5倍大きくできる

芯金をステンレスとし、スピンドルを回転させるデスクモータに磁石を着けてそれで、芯金を吸い付けて固定したので、従来のフロッピーの様に、上からフロッピーを抑えるための大きな穴が無くても良くなった。
となると、上面はこのヘッドを押さえるためのスリットだけとなる。

仙台の工場長だった戸沢圭三郎は、この試作品を見るなり、メデイアというものは1銭でも安くしなくてはいけない。紙でなくプラスチックや金属を使っているのは、問題である、と。
システム開発部の企画担当の顔を見ず、磁気製品事業部や仙台工場の担当者に言った。しかし、カスタマに対し最終製品を開発する事業部に対し、徹頭徹尾サポートする姿勢は崩さなかった。

ただ、驚いたことに、「これは3.5インチと呼ばれることになる」と明言した。当時ISO等がセンチメートルの尺度の国際標準を決めていたが、工業力ではまだアメリカが主導権を持っており、インチ尺度で呼ばれることを見抜いていた。
また、「メディアを何枚かまとめて販売するためのデザインされたファンシ―・ケースやその中に張り替えラベルも同梱する商品化を急ぐように」と、督促したことにも驚いた。

後に、大賀は、このラベルの大キサが何よりも良かったと指摘している。「1cm大きければ、1億円の価値がある」と。
5インチに比べ、3.5インチのラベルの大キサは、3.5倍だったのである。
後にPCのゲームソフトが、3.5インチMFDで売られるようになったとき、カラフルにゲームの内容を印刷したソフトが多く出て、商品が自らを売り込むフィール・ウエア―を持っていることの大切さを示す例となった。
流れに乗ってくると、次から次に、応援団が増えていった。


4.2 ソフト・フォーマットとハード・フォーマットのDNA

ソニーが3.25インチFDの開発を始めた1978年には、5.25インチはまだ、8インチの市場の1/4位であった。
しかし、企画スタッフは、ベータの教訓に学んで、蓄積されたソフトのデータが持つ社会的資本こそがネットワークの外部効果性を持つことに注目していた。
これも、新しい生物が生存できるバウンダリー・シェルの上限を膨らませることに繋がったのである。

ワープロやオフコンやプロコンや計測機器等の小型のデータ機器等に使われるメディアは、5.25インチが増えて溜まって行くであろう。
そうしたデータ資産と3.5インチはマッチングすること、つまり互換性を持つ必要があると考えた。つまり、トラック数やとトラックの中のセクター数、そしてセクターのビット容量などである。
こうしたソフトフォーマットのデータは、企画Gp.に集まった優秀な平野、疋田、吉村、青木等の若手によって、データが採られ、戦略が練られた。

一方、データの記録速度や読み出し速度は、メカのスピンドルの回転スピードや転送速度等のハードスペックに依存する。
こうしたハードのデータ処理の機器とのインターフェースは、LSIを起こすと2~3000千万円の投資が必用であった。事業部長の加藤善朗は、独自にLSIを起こすことを諦めたが、それは、既に周辺機器のデファクトスタンダードとなりつつあった8インチのFDDのハード・フォーマットとなった。

つまり、3.5インチは、データ構造のソフト・フォーマットを5.25インチとし、コンロローラや高速な転送速度等のハード・フォーマットは8インチのそれぞれのDNAを引き継いだのであった。結局それが、その後の展開に大きな効果をもたらした。


1) Hpを世界No.1のICT企業に仕上げた男

ソニーは、トリニトロンの成功が続く中、次のソニーを引き継いだ首脳陣の中に、ベータの敗戦がその経営戦略に深い傷を残した。
井深や吉田は、時間こそが規模に劣る企業にとって平等に与えられた資源であると考えていた。
従って、世界の最も高い水準であった色信号処理用のLSIは、VHS陣営の他社にも供給することを拒否した。またベータのキーパーツであったドラムアッセンブリ―も供給を拒否した。これが恨みを買いベータ陣営の広がりと敗北につながったとの共通認識となった。

そのため、3.5インチMFDの特許ライセンスは、いわばダンピングされた。100万円で1括の、ペイドアップ方式でライセンスしたのである。
もし、MFDに付いて1円/枚でもランニングペイメント方式にしてあれば、やがて年間30億枚となったときのキャッシュインは、事業部と仙台の磁気製品本部に大きな基盤となったであろうが、こうした決定は、トリニトロンの開発を担当した加藤には、全く相談がなかった。

大賀がソニーに返り咲いたとき、OEMをビジネスの柱に据えることを宣言した。いわば、ソニーにとって、コペルニクス的転回であった。
当時、トリニトロンブラウン管の開発の山場を越え、自然い世界を制覇しつつあった。
第1回開発部の大越の下では、プラズマ、液晶、ELや、インデックス・トロン等が世界最先端の開発を進めていた。色選別機構をメカニカル式に持たないため、ビーム透過率が高く、飛行機のコックピットのモニタとして使われたり、ホームシアター用のプロジェクタとして使われ、1部のファンから映画フィルムの様だと熱烈な支持を獲得した。

大賀は、その中で、まず蛍光表示管の技術を伊勢電子に数億円で売却した。当時デジタル時計や時計付ラジオのデジタル表示やテレビのチャンネル表示部にも使われていたが、元はソバックス用に開発した技術であった。
当時、物品税があり、東京国税局はこれをラジオ付き時計として5&としたが、名古屋国税局はこれを時計付ラジオとして10%としていた。双方ともその根拠をお互いに知りたがって、ソニーにお互いの根拠を尋ねてきたような時代である。
その先を見ていた大越は、それを当たり前として受け流していた。

次いで、プラズマに入れ込んだある係長が、これで起業したいとトップを説き伏せ、ソニーからの投資を引出し独立した。大越は、「結構ではないですか」と、それも快く応援した。
その他でも、液晶やELや表示デバイスの開発は業界でもトップを走っていたが、やがて技術戦略本部が見かけのROIが審査の基準となると、研究開発の効率化が求められ統合され、やっていた若者達は各種のよりコンパクトなディスクの開発等や、ゲーム機や、ユニークなインデックス・トロンや筑波万博でジャンボトロンやゲームの開発に向かって散っていった。
そんな液晶の新井Gp.の中には、後にプレイステーションを開発する久夛良木健等も居た。

OA事業部のトップは、IBMに向けてアプローチを開始した。一方、企画スタッフと設計担当者達は、計測器のHp社、ワープロのワング社、パソコンのAppleを落としたい、そうすれば、官僚的なIBMも落ちるであろう等と冗談を言っていた。

1982年、ソニーアメリカの営業から、ヒューレット・パカード社から、D. ハックボーンがミッションを送り込むとの連絡が入った。
厚木工場の大型会議室に、ハックボーンが左右にスタッフ3人を連れて並んだ。右にQC担当と弁護士、左にロジステック担当であった。

こちらは、情報機器副本部長の宮本敏夫と法務の中村が中心で、OA事業部長の加藤、次長の松山、設計課長の田中と企画担当などであった。
宮本は、本社でも外国部、業務部、特許部の部長等を経験していた。やおらハックボーンの工場に付いて、どんな土地かと聞いた。そして、アイダホのじゃが芋畑の中にあるとのことで、厚木と似ているとお互い肝胆相照らす会話となった。

そして、ハックボーンは、いきなり取引のでディテールに入った。パソコンを開発するので、3年間で27万台購入したい。
その時、左にいたQC担当が質問がある、と言った。ハックボーンがそれを押さえた。「発注方式を詰めたい。3年間にわたり6か月間の中期発注見通しをローリングしつつ、3ヵ月内示で、2ヶ月の出荷計画確定とする。」
これは、トヨタのカンバン方式とそっくりであったが、これに3年間のボリュームデスカウント・スケジュールまでが組み込まれていた。

そして、物流便は近畿航空を予約して確保する。決済はドル建てとしたい。ただしそのドルをいつの外為相場で円にどう替えるか等等、素晴らしくディテールに及んだ、そして最後の最後にプライスの話しとなった。

二人とも、優れて経験を積んだビジネスマンであった。諸条件を全て詰めてから価格だけが残されたのである。もしその後、商談を壊す手を隠していれば、交渉はぶり返し堂々巡りになり兼ねない。
ハックボーンは、3.5インチを購入することを決め、その購買条件を詰めることだけに集中して用意して来日したことは明らかだった。

お互いに問題点が無いことに、頭を巡らせて価格の提示を受けた。あとは、ソニーがそれを飲むかどうかであった。決断は、事業部に委ねられた。
宮本は、15分の休憩を申し出た。そして、事業部の意見をまとめるように要請した。
事業部は、別の部屋で事業部長の加藤、次長の松山、課長の田中、企画担当が協議した、原価ぎりぎりで厳しかったが、これだけの生産量が確保できるのであれば、何とかなる。こう宮本に伝えると、彼も喜んだ。

ハックボーンと宮本、そして加藤、松山とが握手した。
その晩、本社の法務部で、徳永が徹夜で、分厚い契約書を作成した。田中と企画担当も、徹夜で徳永からのディテールについての問い合わせに対応した。
3.5インチが、世界に羽ばたく一歩となった。
徳永は、その後、CBSレコードやコロンビアピクチャーの買収やプレステの社長となる男である。

D.ハックボーンは、その後Hpのパソコンを立ち上げ、パソコン用プリンターも立上げた。
Hpでは、次期会長の委嘱を断り、奥さんとの約束を守って田舎に残り続けた。その後の会長はフィオリーナが引き受け、やがてコンパックやEDSを買収し、2011年時点では、売上高が世界最大のIT機器メーカーとして、パソコン、サーバ、プリンターのすべてで世界トップシェアを持っに至った。
この実績はハックボーンによるとことが大きいとされている。

品質に関しては、ソニーが自家用にワープロとして、使っていたことが、信頼につながった。
とはいえ、Hpの要求は、合理的であり、3.5インチFDは、Hpによって育てられたと言って良い。
彼らの在庫リスクに関る研究もIDC: Inventry Driven Cost と言う、技術の陳腐化に伴う電子機器特有の理論に基づく研究の成果を踏まえたもので、トヨタのカンバン方式以上に精緻で合理的なものであった。当時、カンバン方式の研究論文は、学会の花形であったが、失敗により姿を消した。


2) スチーブ・ジョブスの細心さと人質

その翌年1983年ソニーアメリカのOEM担当から連絡が入り、アップルのスチーブ・ジョブスが、厚木工場に来ることになった。
これには、里親の情報機器事業本部長の森園が乗り出した。スチーブ・ジョブスは、神妙にその横に座って、左右に並んだソニーの従業員に挨拶した。森園がソニーのマークが入った制服を手渡すと、少し窮屈そうではあったが喜んで腕を腕を通した。

商談は、Hpとは全く反対に進行した。まず概略数量と価格とが提示された。それは、驚くべき低価格であった。
そして、技術的な細かい変更要求がいろいろ出てきた。
「記録容量をできるだけ大きくしたい。線記録密度が一定なら、内側のトラックより外側のトラックが長いのでその分まで記録できるようにしてくれ。」
また、「PCが読み出しや書込みをしているとき、ヒトが無理に取り出すと、記録エラーや機械の故障になり兼ねない。機械が自分でカセットを吐きだすようなオート・イジェクト方式にしたい。」等などの要求が続いた。

そして、設計と試作の現場を見たいと言った。
設計Gp.の現場を回りながら、質問が幾つかあった。
その一つは、「ソニーは、この3.5インチFDを途中で止めることは無いか?」という質問であった。
「ソニーはすでに、S/35を始めており、止めることはありえない。」そうかと言う。
しかし、「他に証拠はないか?」
「このハードカセットの金型は投資済みである。またこのヘッドや、ドライブの金型も投資している。」、ウンとうなずく。

そして、測定評価ルームに入ったとき、「アップルは、開発中のCPの試作品を1台ソニーに渡すので、それでMFDと評価をして欲しい。」

また会議室に戻った。今度は、NDA:秘密保持契約についてだった。
「先ほどの評価ルームに鍵を掛けて、出入りできるエンジニアを2から3人に限って、その出入りの記録を残して欲しい。」
雰囲気は次第に重くなり厳しくなった。

会議が終わって、事業部で、鳩首会談をした。数量はHpよりかなり大きくなるだろうが、とても価格が低すぎる。Hpは$100を超えていて、コストダウンができ、利益が出るようになっていた。
しかし、今度は、大幅に$100をかなり切らなくてはならない。おまけに、Hpは、がっちりとMFC:Most Ferebable Close 最恵国待遇が入っていた。
つまりHp以外に出した価格や条件がHpより良い条件を付けないという条項であった。もし、アップルに安いプライスで契約すれば、Hp向けのプライスも下げなくてならない。大きな赤字となってしまう、

その晩、宮本常務から厚木の山奥に料亭に声が掛った。
松山と田中と企画担当だった。宮本は言った。「どうか、スチーブ・ジョブスを、男にしてやってくれないか」と。
宮本は、当時のソニーに布陣したトップの一員として、ベータの連合の組成の失敗を骨身にしみて感じいていたようである。

宮本は、外国部でトリニトロンのアメリカ進出の苦労も知っていたし、業務部でRCAからのテレビの特許ライセンスの売り込みを受けた窓口も担当し、またトリニトロンがクロマトロンからの特許侵害に対する訴訟も担当した経験もあった。
吉田が日本での裁判に単独で呼び出され、リレイテッド・アパラタスのクレームでの論述をサポートした。彼は江田島の海兵隊の最後期の卒業生でもあり、肝が据わっていた。

3人は、この商談はお断りするつもりであったが、その宮本の説得に感得した。
「やってみようか、ターゲットが明確に示されている。ソニーのエンジニアなら、力を合わせば達成できるに違いない」、と腹を決めると、すっきりした。

翌日、スチーブ・ジョブスがソニーの制服を着てと森園が二人が並んで座った。
ただ、森園に管理部長がすみませんが、と口を切った。
「実は工場長の蜂谷から、ソニーの制服を着て工場を動くことができるのは、ソニーの社員に限られている、とのことです」、常務の森園は苦笑したが、スチーブ・ジョブスに伝えそれを脱がし、彼は、テーブルの上に畳んだ。スチーブ・ジョブスは、ちょっと未練を残した顔をした。そして口を切った。

「いま、自分は娘のリサ:LISAという名前にちなんだコードネームのパソコンを開発している。ただ、そのために開発していたフロピーが上手くできない。自分は、ソニーの3.5インチを買って帰りたい。売ってくれなければ、アップルは潰れてしまう。何としても売ってくれるまでは、帰らない」と、言った。

しかし、問題は、3.5インチのMFDのフォーマットが5インチにマッチングする物と、わずかの容量を増やすための小細工されたアップル向けの2種類が世にでてしまい混乱する問題もあった。
何よりもNDAの問題が引っ掛った。もし、何か不具合が起きた時、我々は衆知を集めて3.5インチMFDをここまで育ててきた。これがソニーのやり方である。とても2人か3人に限って仕事を進める訳には行かない。議論は硬直状態となった。

ジョブスが口を開いた。「判った。ではNDAな無しで行こう。ジェントルマン・アグリーメントでやろう。」
今度は、こちらが緊張した。絶対この信頼を裏切ってはならない。

これは、後日談となるが、ジョブスがLISAプロジェクトから、マッキントッシュに乗り換えて、3.5インチMFDを使って成功を収めたが、どうやら、彼は銀座のソニービルでシリーズ35のモデル10を見て、ウインドウを蹴破りたいほど怒り狂ったと、ある雑誌の記者から聞いたことがある。
マッキントッシュのデザインが盗用されたと勘違いしたのか、あるいは、嫉妬したのか、不明であるが、ソニーは、マックのプロトタイプを観る前に、モデル10をリリースしていたので、後者ではなかろうか?

彼は、アップルⅡの陣営に対して、ライバル意識が強かった。
本社と通りの反対側のビルに陣とって、スタッフをすべて外部からリクルートしたと言っていた。そして、「アップルⅡの連中が3.5インチMFDを買いに来るだろうが、絶対に彼らに売らないでくれ」と言い残して帰って行った。

ソニーは、田中の片腕であった嘉本を、アップルに派遣したが、それは、あたかも心配性のスチーブに対する人質を差し出したように感じた。
ただ、これで、後は、ワープロのワングさえ落とせば、官僚的なIBMも自然になびき、アメリカでのデファクトスタンダードへの流れが決まるだろうとする手応えを感じていた。


3) 日本での3インチ対決とMSXの親フォーマット

3.5インチが船出した翌年、日立と松下が組んで3インチのフリッピ―ディスクが発表となり追いかけてきた。
ベータとVHSの闘いの再現と、メデァイは採り上げた。通産省も注目し、これをJIS化しようとして動き出していた。

ちょうどこの時期、アスキーの西和彦がマイクロソフトのビルゲーツと、日本では「ホームコンピュータ」で、MSXの企画を立ち上げつつあった。
MSXの意味は、松下のMとソニーのSを掛け合せるという意図があったようである。またマイクロソフトの意味もあったかも知れない。
いずれにしても、これは、既に各家庭に普及した家庭用カラーテレビをパソコンのハード・プラットフォームにしたいとの発想が前提となっていた。

西は、松下電器を口説き、ソニーでは、芝浦工場のオーディオ事業部長であった出井伸之を口説いた。
キャノン、カシオ、富士通、ゼネラル、日立、京セラ、松下、三菱、NEC.ヤマハ、ビクター、パイオニア、三洋、東芝、ミツミ等の日本勢の他フィリップス等約20社連合となった。

しかし、ソニーのシリーズ35やIBM PCが、モニタをエジソン以来のパリティ規格である80文字/ラインを守もったのに対し、通常のテレビモニタをハードプラトフォームとしてので、「インフォメーション・フロー・マッチング(情報の一貫性)」が採れなかった。

つまり、従来の印刷物の情報は、「英数字で80文字/行という原則」があったが、MSXでは、それとマッチングできなかったのである。
情報創造という作業は、いわば知識の積上げ、改変作業である。辞書やメモや契約書や、法律から特許に至るまでそれこそ人類が蓄えてきた都的資産を活用する作業である。
MSXを使うためには、従来の資料を、全て76文字/ラインに変換し、ページ構成も変える必要が出てくる。
そのため、テキスト処理機能の基礎的要件を満たすことができず、OA機器としてのワードの事務処理の領域に参入することができなかった。そのため、ゲーム機や子供向けのお絵描き教育ツールなど言われた。

また、外部記憶デバイスのフロッピー等をオプションにしたため、マッキントッシュと比べ、整合的で最低のコンフィギュレーションを踏まえた「ホール・プロダクツ」となっては、いなかった。

とは言え、当時世界を圧倒していた日本の情報家電業界が一丸となって同じコンピュータ規格を統一したので、日本では200万台を売り、海外でも南米やスペイン等を中心に200万台を売った。また、ICTにはいくつかの大きな技術遺産をのこした。
例えば、「インターネット」という通信サービスは、1985年には、ソニーの「Hit Bit」という雑誌でアダプターを宣伝し各種のアプリを提供した。

また、デジタル音源を通信するMIDI規格は、ヤマハによってLSI化され普及と進化が促進され、通信カラオケやスマートフォンの進化にも貢献したが、この基本特許を持っていたスタンフォード大学には、第2位となる莫大な資金を提供した。

ただ、テキスト処理機能の基礎的要件を満たす外部記憶装置はオプションとなったが、そのデフォルトを3.5インチとするか3インチとするかで意見が分かれた。
1983年、関係者がソニーの会議室に集まった。西和彦が議長席に着き、ソニーの盛田昌夫が副議長席に着いた。西が口を開いた。
「本日お集まり頂いたのは、外部記憶デバイスを3インチにするか3.5インチとするかです。ご存じのように海外では3.5インチはアップル社とHp社が採用しています。国内では議論が割れています。さて、どちらにするかですが、両方を採るとお客様が混乱します。
私はどちらでも結構ですが、3.5インチを採れは、MSXは世界規格になりますが、3インチとしますが、日本国内規格となってしまいます。では、一社づつ、どちらにするかご意見を述べて下さい」と言って見回した。
西和彦と盛田昌夫の一番左側に日立と松下が座っていた。西は、自分の右隣から指名した。二人は身を乗り出す様に、また威圧するように、敵か味方か、一人づつ踏絵を踏ませていった。

「3.5インチ」、「世界規格で」、という声が続いた。次第に松下と日立に近づいた。松下から年配者が出席していたが顔色変わり、赤くなって最後に、「3.5インチで結構です」と応えた。日立も遂に「3.5インチで」となった。
こうして、国内では1984年5月の発売前に3.5インチに一本化された。これこそ、3.5インチを世界規格とした盛田昌夫の大きな貢献であった。
ソニーのトップ達がいわば口先だけのアイデアの提供でMFDへの貢献を語っているのと異なり、本質的な貢献であった。

4) 国際標準という標準化活動

近代国家として遅れて登場した日本は、産業の基盤であるインダストリ・エンジニアリングという技術が極めて薄い基盤であった。
それは、アメリカの少年達が憧れるヒーロが、飛行機を飛ばしたライト兄弟や、自動車を産業化したフォードや、レコードやフィルム産業を興し電燈を家庭に灯したエディソンや、ラジオやテレビを開発したRCAのサーノフ等のエンジニア達であったのに対し、日本は士農工商との下から2番目がその格付けであった。

因みにアメリカでの尊敬される職業は、PE:プロフェッショナル・エンジニアで、5部門あり、電気、機械、化学、都市工学、そしてIE:インダストリアル・エンジニアである。
そしてこのIEは、他の4部門では、基礎技術とされている。

そのIEの基礎は、「応用統計の技術」と「標準化推進技術」である。
実は、この前者は、戦前多少は国際的な水準に達していたがそれは、国家として優秀な人材を囲い込んでいたからでもあった。それが、戦後に遅れをとる原因ともなった。
応用統計の技術は、統計数理研究所が、暗号解読等で人材を囲い込んでいた。戦後、日本で応用統計の学部・学科を作れた大学は、1校も無かった。日本がようやく21世紀になって、滋賀大学が開いたとき、韓国では7校、中国では17校、アメリカやインドは1000校は下らなかったと思われる。

標準化に関する学部・学科についても、半世紀前アメリカには1000校近い大学があったが、21世紀の日本には未だ無い。
これは元々、国際貿易に関わる英国の保険会社やオランダが発祥で、確率統計と深い関わりがある。
日本の技術士制度は、アメリカのPEをお手本にしたものであるが、日本特有の詳細化を究め、20部門に細分化され、IEの基礎であるデータ分析と標準化は、必須項目から外されている。

ついでながら日本の日本のコロナ禍でも、そのデータに疑問を持たれている節がある。専門分科会にデータの専門家がいないので、感染症専門が昨日のデータをニュースキャスターもどきに解説して、国民にお説教をするのは、お天気キャスターが昨日の天気図の解説をして、「今日も、昨日と同じように傘を持って行くべきである」と言われているような違和感を覚える。


4.3 量産体制とシンガポールのOEM工場

ウオークマンで培われた薄型の扁平モータが、周辺技術としての威力を発揮した。
最初は厚さが1インチあって、ゴロンタと命名されたが、まもなく1/2インチに改良が進んだ。これは、ウオークマンでオーディオカセットサイズを実現するのに力を発揮したソニー工作部の貢献が大きかった。

通常のモータは、筒状にコイルを巻き、その中に回転子をいれ、その回転軸を駆動系に伝えるのである。
しかし、扁平型では、ブラシレス直流モーターで、エアギャップをできるだけ減らしてトルクが得られるようなバックヨーク回転型を開発した。プリント配線板て支持された複数の薄型ステータ・コイルにすることで、磁界の磁束密度を高く保ち高トルクを得ることができるようになった。

これにより、パソコンやワープロ等に従来は1台のFDDを装着していた所に、上下2台を挿入することが可能となった。
また、従来2台のFDDであれば、その空いた所に、ハード・ディスクを挿入することも可能になった。
驚いたことに、アメリカでは、3.5インチとフォームが同じでフィットする寸法の”1チンチ厚のハードデスク”という特許が申請されファイルされたのである。

薄型となった3.5インチFDDは、空路で世界中に流通させる方が有利になった。
ソニーは、シンガポールに、その量産工場を建設した。そこには、事業部長の加藤善朗が、入社の専門面接で採用した斉郷陞が着いた。

斉郷は、トリニトロンプロジェクトの時、係長であったが大崎のブラウン管工場や稲沢のブラウン管工場の建設で、辣腕を振るった。
大崎工場の時は、建設図面を書かずに、建設担当部者と、工事業者とで昔の工場を、何処にコンベアを引き回すかを、現場で計画を練りつつ、しかも量産試作中の作業を止めずに、工場を完成させたのだった。パイプやダクトがある現場を測量し3次元の図面を起こしている時間ももどかしかったのである。
それは、壁が有れば防護壁でもそれを、空調のダクトが有ればそれを自ら邪魔になるのを鋸を持ってきて切り落としてコンベアを引いて行った。
消防法で規制された法律に詳しい建設部長を有無を言わせず巻き込んで、スプリンクラーを造らせるなどの対応処置を後から取らせた。
これは、井深の考えたF-CAPのF-PERT法よりもドラスティックだった。

天井のコンベアを熔接する火花が散れば、その下で作業中の女子工員をそれから守るため、火花よけのブルーのシートを手で持って少しづつ一緒になって移動しながら、作業を止めずに、コンベア工事も同時進行させた。

こうして、途切れ途切れに、工程が動き始め、つながり始め、ついにある日の昼ごろ、大崎工場の4階の工場長室の吉田進が、ふと顔を上げると、床下から、静かな振動が伝わり、やがて、ゴーォーと静かに地鳴りがしてきた。
それは、世界で初めてトリニトロンブラウン管の量産工場が立ち上がっり流れ始めた瞬間であった。吉田は、企画担当者と顔を見合わせて、しばし、感慨にふけった。そして、また机に向かったのであった。

その後、斉郷は、稲沢工場をわずか半年で、田んぼ買収し最新式のブラウン管工場として立上た。
その時の定例の進捗会議では、当時常務だった宮武も、席から手をあげ、司会進行約の斉郷係長から農地委員会への交渉の進捗を報告し、「急いでください」発破を掛けられている。

そして、1973年には、英国のブリッジエンドのテレビ工場を、工場長の常田を支援して立ちげた。

加藤善朗が作った信頼性GP.は、大崎工場では技術評価Gp.として次第に本社から大崎に異動して行った。
その中には、トリニトロンの組立工場に、ワンマン・プロダクションを改良したセルフペース・ラインコンベア方式を導入した下村正治も居た。また、自らラインリーダとして作業者達にQC活動を導入した平田敏昭も居た。
下村は、ライン習熟のデータをとり、そのパターンを分析し、新製品投入から3日目で、最終のピッチタイムを予測できるモデルを開発し、生産計画とセイバン管理に応用した。また、大賀が買収したドイツのWEGA工場は、万年赤字続きであった。応援に行った下村がやったことは、積み上げられた部品や仕掛かり品の山を無くし、工場全体がスッキリ見渡せるようにすることから始め、次第に能率を上げ生産高を向上させた。しかし、結果は、生産高は増えたが、利益は上がらなかった。理由はSGAが。24%とその率はドイツ人らしくキチンと不変で他の世界の工場のように21.5%にならなかったのである。

そして、斉郷は、シンガポールに、3.5インチFDDのメカトロの工場の責任者となって、立ち上げたのである。
その後、シンガポールは、スマフォやデジカメ等の精密製品の基幹工場に成長する。
シンガポールは、アメリカ、ヨウロッパ、日本、そしてアジアの4極の1つとして、生産拠点の基礎を築いて行ったのである。

後に、出井が開発した、MSXやVAIOの主幹工場となった安曇野工場は、コンペチタのDELLのOEMを引き受け、一緒にビジネスモデルを完成させ、DELLも、アジアの供給拠点を、安曇野からシンガポールに移している。

ソニー本社から切り離したEMSの安曇野工場には、MSXの開発のコアメンバーだった森課長や篠原係長が異動し、製技と受託生産技術を充実させたのである。
そして何より完成品の歩留りを100%に近く上げることで、DELLの元祖BTO:Build to Orderとして知られるビジネスモデルを開発出来、急成長させることができたのである。

これは、いわば顧客にPCの仕様を企画させ、それを直ぐ直接配送するビジネスモデルであるが、その前提は、調達部品から組立までの1貫歩留りを如何に100%まで向上させることができるかが勝負なのである。
本来IBM PCが目指したホーム・マージという思想を実現したのが、ソニー安曇野工場の助けを借りたDELLのBTOビジネス・スタイルであった。

ついでにいえば、VAIOもこのBTO方式とセイバン管理方式で、利益を出していたのである。ソニーの6代目の社長になった安藤も、これを”チャーハン料理方式”と呼んでいる。
トヨタのカンバン方式は、工場の出口までのプロセスしかカバーしていなかったため、新社長が誕生した途端、市場に溜まった在庫の山で、工場閉鎖にまで追い込まれてしまったのである。これは、大野耐一氏も、気にしていながら実現することができなかったのであった。