1編

SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
 SONY Myth, It's an innovation story of media


2章
映像の記録メディアの用法と様式の共進化する



3◇ 世界のリアルな現実がニュース映像となって


3.1 1972年ENGの誕生への兆し 

通信衛星による日米間初の共同実験放送は、1963年11月23日ケネディ大統領の暗殺ニュースとなり、狙撃の瞬間の映像とニュース速報が日本全国に流れ、衝撃を与た。
これは、8ミリフィルムの映像を、衛星放送で国際的に配信された実験放送の最中であった。

1972年2月21日の劇的ニュースは、1971年のドルと金の交換廃止に続く、翌年の第2のニクソンショックであった。
ニクソン大統領がエアフォース・ワンで北京空港に到着し、タラップを降り、周恩来首相が出迎え握手を交わした瞬間から、現地に用意された機材と衛星放送で、世界中にライブ配信されたのである。クロスカントリーでリアルタイムで映像が電子的に配信され、それは全世界が歴史の転換点を共有した瞬間だった、

そこで活躍したのは、ベータによってスタートアップができたソニーの3/4インチ幅のカセットテープを使用したUマチック方式のVTRによる機材群であった。
これは、それまでの銀塩フィルムカメラによるニュース映像が大きなイノベ―ションによって大きく変化する可能性を示したもう一つの事件でもあった。ENG:エレクトロニック・ニュース・ギャザリングが誕生した瞬間であった。

ENG は、1974年頃からCBS・NBCなどによる大量採用もあり、急速に普及を始めていた。
電子ニュース採取:ENG:Electronic News Gatheringという用語は、1976年に放送業務用Uマチックを共同開発したCBSのジョー・フラハティとソニーの森園正彦が開発した新しいメディア技術のコンセプトである。
これは、いわばいわばソニーの盛田昭夫のB2Cのコンスーマ・マーケティング・イノベ―ションと並ぶ、もう一つのP2P:プロフェッション ツウ プロフェッションのマーケティング・イノベ―ションとでも言うべきものであった。

日本でも1974年にフォード大統領が来日した際に、アメリカの取材スタッフがENGを使用していたことからその可能性が注目されるようになった。
ただその頃、NHK技研がUマチックを分解し、これは放送用には使えないと結論を出していたこともあり、普及は遅れた。
通常、放送関係の機材は取材から編集送出やテレビ受像機に至るまで、郵政省の放送事業局とNHKの専管事項であり、民間だけが勝手に開発する前例は無かったからである。

ただ、海外で普及していたENG機材から、そのコンテンツがCBSから、Uマチックで送られてきて、NHKの報道部の棚晒しになっていた。
特に、NHKでは日本放送労働組合との調整にも手間取り、民間放送局(民放局)の後塵を拝することとなった。
しかしそのコンテンツを観るには、どうしてもUマチックを導入するしか道は無かった。

ENGへの転換は、日本ではローカル民放局でまず起きた。1976年テレビ高知のイブニングKOCHIが全面的にENG取材に切り替えたのが先駆けである。
これは、設備を白黒からカラー化にする際、フィルム現像所の更新、あるいはENGの導入でカラー化するかの選択に迫られたためである。遅れた北国の春は一挙にやってくるのである。

アメリカでは、同時期に登場したハンディカメラ(小型の肩乗せ型カラーテレビカメラ)とマイクを持ったインタビューワとの組み合わせで、報道に盛んに用いられるようになった。"ビデオ・ジャーナリズム"というコンセプトの誕生であった。
そして、テレビ放送という大放送局というセントリックなメディアの分散統合化という大きな流れが始まったのである。

一方、森園部隊は、本格的な放送局用の1インチVTRをΩフォーマットも開発をしていた。
そして、Uマチックは、インスト用(非放送局用の組織向け)のビデオコミュニケーション・メディに位置付けとなった。
フォード自動車やコカコーラ等の大企業が、トップから全米の従業員に向けたミッションやターゲットやバリューの共有等のメッセージを届けるためであった。
これは、河野が考えた「映像用機材は、階層化され高画質のグレイドによって市場が異なり、棲み分けが進み共存する」との仮説的予言をなぞる形で展開していったたのである。

ただ、プロダクツのグレイドが異なる販売網がカニバリゼーションを起こさず共存させるのは、難しかった。
そもそも、森園の情報機器本部ができた由来もそこから来ていたのである。

それは、国内営業が他社から「トリニトロンは大型ができない」と批判され、20インチ止まりであった時、ちょうど27インチの試作が進んではいたが、国内販売担当となった常務の大賀が、もっと大きなサイズができないか?と吉田に迫ったことに端を発した。
「では世界最大の32インチをやりましょう」
「判った、では、価格を100万円で、100台造ってくれ」とのやり取りから始められた。

それが完成したとき、大賀は、全国の営業所長を集めて販売会議を開いた。
トリニトロンの販売キャンペーンをやろう。目標を達成した営業所に賞品として32インチを差し上げる、と。20数名集まった所長達の顔色は優れなかった。結果は、3台しか捌けなかったのである。

テレビ事業部は、在庫を抱えて、ブレーンストーミングをやった。最も気の利いたアイデアは、ブラウン管のネックを切って水を入れ、中に金魚を泳がせて3Dの立体表示にするという程度であった。実際、その後、NECの本社ビルの最上階には、それと似たシステムの展示が成されていた。

大崎の企画部隊は、NHKに直接販売にトライした。
NHKのスタジオを借り切って、32インチを運び込み、300枚のパンフレットを用意し、昼休みを挟んでデモを行った。職員の皆さんが見えて、驚いて熱心に観て頂けた。

制作局やスタジオ等から手応えや引き合いが数台あった。
大崎に戻り、特機営業部隊にその名詞や連絡先を教えたが、なにも起こらなかった。
特機営業の特約店のマージンは、コンスーマの店よりも大きい。しかし、もし、東通産業がNHKに売りこんで商談を詰めたとすると、NHKの門前の一般小売店がすかさずもう少し値引きして納品してしまうことを見越していたのである。

企画スタッフは、社長の盛田に直訴した。客が居り商品があるが、売る部門が無い。
盛田はすぐ理解した。ただ、「少し待ってくれ、ヒトの問題がある」と言った。それには、盛田流の「人材石垣論」に基づく準備が必要だったからである。

半年経って、ソニーの一般店向けのトップの人事があり、放送局用の営業を含むGp.を森園をトップにして厚木に集結させた。情報機器事業本部の発足であった。
情報機器事業本部は、磁気製品本部と同様、研究開発から全世界の営業まで一貫体制となって発足したのである。
しかし、情報機器事業本部が発展できたのは、技術力だけでは無かった。

B2BとP2Pとの共生と互生というマネジメント・テクノロジーのノンコンスーマのマーケット・イノベーションとでも言うべきものがあった。
それは、K.T.と呼ばれた角田のイノベーションがあったのである。

ソニーがCBSレコードとジョイント・ベンチャーを組んで、音楽産業に参入したとき、盛田がハーベイ・シャインというユダヤ人を見つけ、ソニーに迎え、ソニーアメリカの社長にした。
シャインは、アメリカの貪欲な企業人を代表する経営者として、盛田のもったいない精神と共通する、利益にとことん拘った。
ソニーは、そうした数値にこだわるアメリカ流のマネジメントのやり方を学んだ。

ただ、その後、ベータの敗勢を受け、一方、家庭用ビデオ市場が急速に立ち上げると、同期して、放送局でもUマチックの簡易編集機としての市場が広がっていった。
そして、企業内コミュニケーション・メディアとしても、フォード、コカコーラ等の利用が盛んになった。ただ、コンスーマ向けベータと、企業等のインステチュ―ション向けのUマチックでは、小売のマージンが異なる。

そして、仕入れに対するクレジット・ラインも異なる。
いい加減なディーラが、Uマチックの代理店になりたいとして来て、効果な製品を沢山仕入れて計画的に倒産されては困る。ディーラのリクルートと、仕入れの上限のクレジットラインのコントロールは、大事な仕事である。かといって無暗に断るとやはり独占禁止法で訴えられる危険がでる。

これを、如何に解決するかが、角田のイノベーションであった。彼は、業務用の機器に対し、ビジネスを単にプロダクツを売るだけでなく、周辺付帯サービスを全てビジネスモデルの要素として定義した。
それは、①導入見積コンサル、②納入と設置というフル・キーターンサービス、③カスタマーの利用法教育、④プリベンティブ・メンテナンス、⑤保守サービス等の全てのサービスである。
そして、こうしたサービスに関する教育訓練を受けることを、契約店になるための条件とした。さらに、店としての構え方などに関しても義務条項を整備したのである。
こうして、日本でも生じていた、カニバリゼーションが、回避されたのであった。


3.2 ベータカムが誕生し映像取材の解放が始まった

1985年は、ベータカム誕生し、映像製作の放送局からの解放が始まり、ビデオ・メディアのデモクラシーへの進化が始まった年でもある。

1)突然、1985年にベータムービーが、アメリカでヒット

ベータの河野は、開発初期からカメラとビデオレコーダーの一体化を開発していたが、思い切って再生機能を取り払い、録画専用としてカメラとビデオを一体化、さらに、バッテリーをグリップの中に組み込むという工夫をし、ベータムービー(BMC-100)として1983年に発売した。
これが家庭用ビデオカメラ一体型カムコーダの第1号機である。
この反響は大きかった。ソニーアメリカのヘッドクオータは、これでベータは巻き返すことができると勢いづいたという。

ただ、こうした新し用途と用法の探索は、初期、芸術家たちによって、挑戦された。それまで、ナム・ジュン・パイク等のビデオ・アーティストが探索していた用途が見えてきたのである。
例えば、ナムジュン・パイクは、1984年、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』にちなみ、ニューヨーク・パリ間衛星生中継番組『グッドモーニング・ミスター・オーウェル』を企画制作した。
これは、アメリカ・フランス・西ドイツ・韓国で放送され、日本でも初の作品集『ナム・ジュン・パイク タイム・コラージュ』が出版された。
その出版記念会で高橋悠治、坂本龍一、細野晴臣とパフォーマンスを行たり、東京都美術館で、大規模な個展『ナムジュン・パイク展:ヴィデオ・アートを中心に』を開催された。


 [図9.12 BMC-100]

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また、1986年、東京・ギャルリー・ワタリで個展『パイク/ワタリ二重奏』を開催。福井・曹洞宗大本山永平寺に参禅し、『メイド・イン・永平寺』『永平寺讃歌』を制作し、ニューヨーク・東京・ソウルを衛星中継した番組『バイ・バイ・キップリング』を企画制作し、テレビ朝日で録画放送された。
こうしたムーブメントが、いわばビデオのデモクラシー化や。コミュニケーションのモードの進化への地平を切り拓いたのである。

ハードは、それが扱うコンテント、つまり用途とそれに合った用法としてのソフトウエアが価値を決める。
単にテレビで放送される映像を記録し、レンタルしたりセルしたりするメディアから、ソフトウエアがシフトし始めたのは、1985年のベータを使ったビデオカメラの一体型のハードであった。


2)ジャンボトロンで弾けた映像コンテントのジャンル

ちょうど1985年、日本では、筑波の科学技術万博が開催された。
ソニーは、世界最大の電子ディスプレイの開発と展示に挑戦した。それまでにはアイマックスというフィルムベースの大型すクリーンだった。

デザインセンター部長の黒木靖夫がプロデューサとなり、トリニトロンの大越がそのデスプレイユニットを開発した。
そのプロジェクトは、井深が唱えたまさに”唯一の明確でスジの良い強い目標”というテーマであった。
そのテーマは、”持ってい行って大きなスクリーンとるものにポンと置くと見えるテレビ”というものであった。
この技術コンセプトは、やがてホームシアターやオフィス用のプロジェクターや街頭を飾るスクリーンとなるのだった。

黒木は、ソニーが最先端の技術を展示館としての申込をしたのだったが、何を展示すべきかの検討をして経営会議の承認を得ていなかったのである。

ただ、副社長だった大賀は、ソニービルの壁面を飾っているブラウン管パネルをさらに大きくして画を映したらどうかと、冗談を言った。
銀座に作ったソニーのショウルームの西面は、高さ方向100個、横方向32個で計2.304個の5インチのブラウン管のパネルで飾られていたのである。それは、柴田ソニーの工場で生産されたが、温度管理が難しいため、パネルの淵にひびが入ってしまった不良品をもったいないとして利用したものであった。ただ、内側に3色らんプを入れて照明していたので、簡単な文字位は表現できたのである。

例によって、最初、電子管開発部の1課の大越と回路開発の3課の島田は、こそこそと、ひそひそと、そしてクック・クックと笑いながら、ポンチ絵を画き、原型をデザインした。
それが、3色最中というデスプレイユニットだった。

黒木は、万博の会場プランを観ていて、重要なことに気が付いた。それは、大きなイベント会場をガイドするプランがないということだった。
開会式や、全体を盛り上げるイベントやプログラムや、会場全体の案内などの設備が無かったのである。

黒木は、ジャンボトロンをソニーの企業の展示館としてではなく、万博全体のイベント施設として、無償で建設し提供するとして提案し直した。
管轄の通産省の役人や主催者たちを説得し、コンテンツに、ソニーは関与しないのでソニーのCMは流さなくても良いと約束した。

これは、万博という科学技術フェスティバルにとっても、大きなエポックメイキングとなるイベントとなった。
とはいえ、毎日いつもイベントを流せるわけではない。また会場のご案内だけではつまらない。
そこで、MSXのゲームで人気が出ていたロードランナー等の動きのあるゲームも流したりした。

ただ、しかし、何と言っても、盛り上がったのは、「ズーム・イン!」であった。
黒木が選んだスクリーンの設置場所は、ローマのコロセウムに見立てた、小高い芝生の丘に人びとが座って見降ろせる窪地であった。
何もない日は、そこで何組かの家族が敷物の上にお弁当を広げていると、いきなりジャンボトロンの大きなスクリーンに、自分達の家族が映し出されるのだった。
それには驚いたが、家族によって、それは絶好のシャッターチャンスでもあった。そして、それは、家族の思い出作りとなったのである。

最後の日がやってきた。黒木は、浅田彰、坂本龍一、原田大二郎達に声を掛けた。
「今からの芸術家は、オーディオも映像もクリエイトして見て欲しい」と。また「演奏しながらジャンボトロンの映像もクリエイトして見て欲しい」と。

これは、科学万博の最後を飾った「TV WAR」であった。
このジャンボトロンのイベントに、小雨の中に若者達で埋め尽くされた。
そして、このビデオは、セルビデオとして市販された。
https://www.youtube.com/watch?v=r5vdayxfRHY :Ryuichi Sakamoto And Radical TV - TV WAR 1985 - 01 "TV WAR Opening"(2021年7月12日)


3)UKで開催されたBAND Aidは世界を巻き込んだ

バンド・エイド (Band Aid) は、イギリスとアイルランドのロック・ポップス界のスーパースターが集まって結成されたチャリティー・プロジェクトである。
1984年、エチオピアで起こった飢餓を受け、発起人のボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロにより書かれた「Do They Know It's Christmas?」(ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス)でBCCがバックアップし全世界20億人に配信され大成功を収めた。

これに触発される形でアメリカではUSAフォー・アフリカが結成され、ライヴエイドなどにつながる一連の大チャリティー・ブームを巻き起こした。
アメリカでは、このころ、「WE ARE THE WORLD」が開催され、アフリカをエイズから救おうと有名はロック歌手たちのほぼ全員がチャリティに参加するて大きなフェスティバルが開かれた。
プロデューサーのクインシー・ジョーンズの指揮のもと、46人のスターがこのプロジェクトのために集まった。作詞作曲はマイケルジャクソンである。

1985年7月13日にフィラデルフィアで行われたライブ・エイド・コンサートでのこの曲のパフォーマンスは、あらゆるライブ・イベントで最も信じられないほどの豪華なラインナップが揃っていた。ライオネル・リッチーとハリー・ベラフォンテは、クリッシー・ハインド、パティ・ラベル、ケニー・ロギンス、グラハム・ナッシュ、ティナ・ターナー、ジョーン・バエズ、そして他の多くの人々と一緒に、JFKスタジアムでの感動的な演奏に参加した。

特に、この20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」に出演したクイーンは、出演アーティスト中最多の6曲を披露し、そのパフォーマンスは観客を完全に把握し、圧倒し、同じリズムで手を振り、体を揺らし脚を上げ踏みし、世界中の聴衆を一体化し感動を共有し、復活を果たした。

これは、ビッグイベントが、音楽と映像がフュージョンし、プロと聴衆がフュージョンし、ビジネスと民衆が造り上げる映像クリエイションの民主化への一歩であった。
また、舞台のジャンボトロンが大観衆と、音楽と映像をリアルタイムで、国境を越え、人種を超えて共感する瞬間に、その価値観を共有する初めて体験であった。

井深と黒木は、筑波からの帰途、すでに陽も落ちた都内を、彼らが乗った車が走り抜けようとしていた。
車窓から夜の闇の中に煌々と浮かぶネオンサインを見ていたら、「黒木さん、これみんなジャンボトロンになるよ」と、井深がつぶやいた。
二人には、この社会の人々の今の姿を映す巨大な鏡がどのように発展して行くか、そのイマジネーションを胸に、感懐に浸っていたであろう。

トリニトロンが、動く画像を捉える眼の拡張欲求を満たすメディアであったとすれば、その時間と空間軸の自由度を得たいとする要望を満たしたのが、VCRであった。
そして、自分達がこれから進むところと、今まで来た道そして、それらを結んで、今まさにあるこの瞬間を、自らの眼で観ることができるメディアの機能がその本質だったのである。


3.3 EDベータとベータ・カムのフォーマットの進化

ソニーは、ベータマックスをより高画質化するためにテープ、ヘッド、回路、メカの開発をし続けた。それらは、VHS陣営が利用できるものであったが、利用できなかったものもある。
それは、VHSの王国の中の成熟環境が、成長に対する受動的反撃症状を起こした場面である。
EDベータ・テープは、8ミリのカムコーダと共に、まさにその現象の1つであった。


1)EDベータというハードフォーマットの進化

メディアには、物理的なハードマットと、信号やデータ構造等のソフト・フォーマットがある。
EDベータ・テープのハード・フォーマットは、コンスーマ用とプロ用と同じであったが、ソフト・フォーマットだけが、異なっていた。

ベータは当初のクロミテープを諦め初期のノーマルなベータのハードフォーマットは、ガンマフェマタイト鉄にしていたが、ソフト記録信号の周波数を高めたハイバンドベータ、及びさらに高画質化したSHBベータにし、EDベータテープはそのハード・フォーマットをメタルにし、ヘッドと共に画期的な高画質フォーマットを実現した。
ただ、この規格には、他メーカはテープメーカも含めて一切フォローすることができなかった。

背景は、1987年1月に日本ビクターがVHSの高画質規格であるS-VHSを発表した。それに対し、VHSより画質の面で有利とされていたベータは、その2ヶ月後にEDベータを発表しあたかも後追いの形となった。

再生機および再生用ソフトが準備されていた。発表時に流された映像は、水平解像度500本(S-VHSは400本)を表示できているテストパターンの他、風景映像などを撮影したものだった。


2) 放送用ベータカムへの技術のアップサイジング

1982年以来、ソニーは、放送局・業務用テープ「ベータカム・BCTシリーズ」を、1/2インチの「U-matic」から、小型・軽量のベータカセットで、放送局の性能を満たす小さいENGシステムとして発売され、全世界に20年間で2億本出荷した。

メタルテープ採用、デジタルテープ開発、HDフォーマットへの対応等、テープ製造技術の向上と共にラインアップを拡充し、プロユースのスタンダードとして「ベータカム」が、テレビ放送のリアルタイム化に貢献したきた。

当初、81年のNABで発表された1号機の「BVW-1」のテープにはベータマックスが使用されていたが、放送用の高画質を実現する為の磁性粉開発や1インチテープで培ったバインダー技術を活用して信頼性向上に努めた。
82年に初の1/2インチ、放送・業務用テープ「ベータカムHG」を発売した。ベータカムテープはビデオS/N向上により、画質に対する高評価を頂く事が出来た。
ベータカムHGシリーズ、ベータカムKシリーズ、ベータカムGシリーズと開発は継続した。
また、ソニーでは80年代初めから、高解像度用HD映像のためのデジタルVTR用テープの開発に着手していた。 
デジタル信号処理では膨大な情報量を取り扱うので、それまでのオキサイドテープではなく、高性能のメタルテープの開発にも着手していた。そして、で1/2インチサイズベータカムに対し、プロ用の1インチの高画質の要請が明確になって来ていた。 
86年に発表したベータカムSPの1号機「BVW-505」には、それまで開発・設計を進めていたメタルテープ技術を採用したベータカムメタルシリーズをラインアップした。

メタルテープでは、高画質を図る為の新規磁性分の開発と、VTRヘッドとの速い相対速度に対応する為に耐久性・信頼性の向上が必要となる。
新規バインダー技術により、粉落ちやスチル特性が向上した高性能メタルテープのベータカムメタルシリーズは、画質において高い評価が得られた。
加えてハードがベータカム・オキサイドテープとの互換性を保った事によりユーザに受け入れられた。

また、当時、編集もベータカムで行いたいとユーザーからの要望が高まり、撮影から編集、送出までの機材がベータカムSPでラインアップされ、ベータカムメタルテープも大量に出荷できるようになった。
また、それまで業務用領域で「U-matic」を、BCT-MAの低価格モデルUVWTシリーズの導入により転換がスムースに進んだ。
こうして、ベータカムMAシリーズは、90年に技術開発関係社に与えられるアメリカで最も権威ある「エミー賞」を受賞した。


3)ベータはハード・フォーマットとしてさらに進化を続けた

こうして、ベータマックスのフォーマットは、テープやヘッドや半導体や回路やメカの周辺技術の絶えざる進化とイノベーションによって、ユーザの高画質と高音質と高信頼性と、使い易さの期待に応えるベータというフォーマットブランドに支えられて進化をし続けた。

こうして。ソニープロフェッショナルメディアは、ベータカムシリーズ今世紀に入った20年間で2億巻の出荷実績となった。その品質グレイドは、進化しつつ、常に同一のプロセスから生み出されるもので、そのグレイドの差が、大きく価格のレイヤを構成することに繋がっていた。
その結果の利益は、膨大なものになっていたのである。




3.4 映像の民主化現象としての8ミリカムコーダ

そして、日本では1985年1月8日、ソニーが8ミリビデオの同社第一号機「CCD-V8」を発表した。

1989 年、飛躍的な高画質を実現した世界初のメタル蒸着8ミリビデオカットテープ"Hi8ME"発売した。
これは、実質的に第8代のソニーの社長になった中鉢良治などによって開発された。

ただ、このときは、ベータのソフトアライアンスの失敗に懲りて、丁寧に情報公開をし、根回しをした。
結果120社のフォーマット・アライアンスが実現した。
ただ、真剣にこのカテゴリーに参入する企業は無く、結局ソニーの独走が長年続く結果となった。

ソニーが、1973年にベータの発売の可否に悩んでいたとき、久しぶりに経営会議に顔を見せた井深大が、「まだそんな議論をしているのか、私は次のものを用意しているので、追い抜いてしまうよ」と言ったと伝えられる。それが、8ミリカムコーダであった。
岩間は、これにCCDを載せると宣言した。

商品企画も、宣伝もよかった。非日常の生活の一端を切り取って映像の記録を残すというキラーアプリの用途に辿り着いたのである。TR-55の誕生である。