1編

SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
 SONY Myth, It's an innovation story of media


2章
映像の記録メディアの用法と様式の共進化する


1◇ビデオ・レコーダのフォーマットの進化

ソニーの映像のコミュニケーション・メディアの進化の流れを追ってみたい。
それは、映像の磁気記録テープに始まるパッケージ・メディアと映像コンテントとの競争的互生関係をエネルギーとする共進化現象の歴史でもあったように思われる。

映像の記録メディアは、そのコンテントを作成すること自体が厳しい条件となる。古来、権力者はその権威を示すため巨大なピラミッットや宮殿やコロセウムを造った。またそこで大きな祝祭イベントを行った。オペラや剣闘士が闘う娯楽が、大衆に解放されたのは、エヂソンの映画のフィルム産業であった。

その本質は、エンターテインメントであり、また現実の力や富をかち取るゲームの現実をリアルに観たいとする反面、娯楽性というフィクション性という恐怖と興味のアンビバレント性を合せもっったメディアであると言えよう。

この映像メディアは、記録することの困難性に加え、再生することの困難性も厳しい技術的条件があった。この映像の再生という機能は、記録するために処理した信号の処理を逆に解いて復元する必要がある。
記録されたメディアが時間を超え、空間を超え、ヒトの文化を超えてて伝えられた時空と人種を超えて再現されるためには、それぞれに記号化と復号化の記録再生処理が前提となる。
そもそも、こうした記録から生成され伝えられるまでの手段そのものも分離され、分業化を促すメディアの機能である。

当然ながら、ヒトの基本的欲求であるエンタメの感性のデータから、文章や画像にいたる理性のデータの、記録再生編集処理技術を進化させ、その用途と用法を拡張することで、ヒトとその心を繋ぐコミュニケーション・チャンネルを拡大してきた。

ソニーの実質的第2代の社長であった盛田昭夫が、最も注力したのがベータ・マックスに代表される映像のコミュニケーション・メデァイであったように思われる。


ベータマックスは、ソニーの実質的な2代社長の盛田昭夫の渾身力で取り組んだイノベーション・プロジェクトであった。
それはまた、映像の電子メディアが、そのコンテンツの権利と映像文化が音楽文化を巻き込み、国境を超え急速に共進化する電子情報化時代のイノベーションでもあった。


1.1 ビデオレコーダでアメリカの映像電子産業が壊滅する

どのような新産業でも、いわばその種の勃興期には、多様な形態が出現し、やがて一定の様相を出現して繁栄する。
生物の起源となった4億年前のカンブリアからジュラ紀でも、種の爆発と種の淘汰が短期間で起きた。

当時、全世界のテレビ産業をリードし続けたRCAは、静電記録方式の「セレクタビジョンを」デスク録画方式で「絵の出るレコード」というキャッチ・フレーズで売り出した。
コロンビアレコードを買収していたCBS放送はEVR:Electric Video Recorderを、モトローラもその安価なEVRプレイヤを開発した。
映画スタジオの MCAも、レーザーディスクを、アプルコ社がベンチャーを支援しカートリー・ビジョ ンを、コダックはテレビ用のスーパ8ミリを開発しつつあった。さらにアンペックスさえも家庭用を狙おうとしていた。

またヨーロッパでも、最大の電機メーカのオランダのフィリップスが1/2インチの「VCR:Video Cassette Recorder」をドイツのグルンデッフィ と組んで開発していた。

しかし、まもなく全米だけでなく、欧州も含め世界的な、カラーテレビやVTRの大手コンスーマ用ビデオ電子機器企業やインダストリーが全て絶滅したのだった。
まさにコンシスーマ用メディアのハードプラットフォーマが、ジュラ紀のような種の爆発と種の絶滅期を迎えていたのであった。

日本でも、松下電器は、四国寿電子が、カセット型を商品化していたが、それは一度カセットが録再を始めると抜くことができないような方式だった。

そして通産省が主導し、ソニーを始め多くの家電メーカを含めたいわゆる「統一型」 CV型ビデオレコーダが白黒からカラー化を目指しの商品化が一斉に進められていた。
これは東芝の1.5ヘッド方式を進化させたワンモータの、2ヘッド方式のヘリカルスキャンで、これで固定ヘッド型は無くなった。
世界初のホームビデオカセットとして科学技術功労賞等を受賞している。
従来の放送局用が 2,000万円程度、業務用が 250万円位のところ、価格は何と19万8千円だった。
しかし、オープンリール型で、またフィールド・スキップ型で画質も良くなかっった。

[図9.11 CV-2000]
OutlineShape1
しかし、ソニーは、取扱いが簡単で、家庭でみんなが団らんで楽しむことができる鮮明な映像でカセットテープ型の、VCRビデオ・カセット・レコーダの開発を諦めなかった。

ソニーの新製品開発の例にもれず、最初から失敗し続けていた。パブリック・ビデオのPV、エヂュケーション・ビデオのEV、そしてコンスーマビデオのCVであった。
カセット型の最初のU-マチックも、その狙いはHome Video Recoderdeあった。

ソニーは、盛田の特許戦略で、松下とビクターとの相互に特許を使うことができる磁気記録に関するクロスライセンスを結んでいた。その戦略は、巨大な欧米の電機メーカと闘うためには優れた戦略であった。

ソニーが、Uマチックの試作品を造り、両者に相談したが、製造部門の主張が厳しい松下から「カセットからテープを引出してヘッドドラムに巻きつけることが難しい」等のクレームが付いた。「もっとカセットサイズを大きくしたい」ということであった。
ビクターも検討する時間を稼ぐためか、それに同調した。両者の間を木原がぐるぐる回る間に、カセットサイズは、次第に大きな弁当箱の様になった。

確かにカセットも本体も生産はし易くなったが、カセットが大きくなると、メカ本体も大きくなり重くなる。価格も40万円となって、一般家庭で簡単に購入できる価格ゾーンから外れて行った。
ソニーは、Uマチック用に、月産4万台の大量生産工場を、愛知県の幸田に完成させていた。しかし、売れない。

ソニーは、これをコンスーマではなくB2Bつまりインスト用に切り替え、その開発と生産を担当する森園部隊を厚木工場に縮小して集結した。また、第2特機営業部をその専属とした。
ただ、事業部として、赤字から脱極するまでには、信じがたいメディア産業特有の、競争的相互進化現象を待つ必要があった。
ハーバード大学の”イノベーション現象論”を研究しているクリステンセンは、「技術のダウンサイジングこそがイノベーションの本質である」 としているが、その逆向きのアップサイジング現象もあり、さらにもっと本質的な進化現象も存在するのである。

トリニトロンの峠を越えた井深が例によって、木原の第2開発をぶらりと訪れ、イノベ―ションの”明確でスジの良い強い目標”を、つぶやいた。
「新聞のラジオテレビ欄を開いて、この日のこの時間の、このチャンネルを見えるようなテレビ」が欲しい。と。
これを、木原は、待っていた。

その目標のためには、全てのテレビ局の放送の全てを記録し、そこから再生できるジュークボックスのようなシステムが必要となる。そのためには、まず、コンパクトなカセットテープレコーダの開発が前提となる。

木原たちは、すぐ、デザインのアーキテクチャを構想した。
木原は、テレビの映像を記録するビデオデッキを開発するためには、カセットサイズを手に馴染んでいたソニーの社員手帳を目標とした。
当時オープンリール用の1/2"のテープの1mil(25.4um)では無理で、1時間分を収めるために19umにし無くてはならなかった。それらの諸元の基となるテープの幅と長さと厚みで決まる。
テープに塗布する磁気記録用の材料とその磁気結晶サイズ、その特性に合った磁気の記録再生用ヘッドのギャップやその深さ、ヘッドの回転速度とテープの走行速度等であった。

そして何より、技術は、広く社会に役立つため、少ない材料で、少ないパワーで、スケールアップするための不確実性を回避するための役に立つ情報、コア技術が求められる。そして、そのコア技術は、進化し続ける筋が良いのが望ましい。そのスジの一つに、安定した互換性を実現する公差に関するスペックがスジの良いフォーマットのアーキテクチャの基本条件となる。

ベータには、コンパクトにするため、少なくても3種のコア技術があった。
その一つはヘリカルスキャンで、テープが横に走るところを、ヘッドが斜めにテープを切断するような形でテープ幅に記録しその記録したトラックを外れないように再生ヘッドがなぞって再生する仕組みである。これは東芝の澤崎博士の特許であったが、井深は、東芝がNHKに強かったこともあり、民生用にソニーが使う許諾を得ていた。そして、東芝が1.5ヘッド方式だったのを、CVで開発した180度反対に2個のヘッドを着けたドラムで、ワンモータでサーボ制御系をシンプルにした。

次が、アジマス記録である、ヘリカルスキャンでは、トラックとトラックの間に隙間を置いて、再生ヘッドが別のトラックの信号を拾ってクロストークしない構造であったが、これを無くしたのである。
そのためには、最初のヘッドが記録するときトラック方向に対し右に少し傾け、180度反対のヘッドをそれと反対に左に傾けるのである。こうすることで、隣りあったお互いのトラックの信号が減衰する。2ヘッドのアジマスの傾きが、ガードバンドと呼ばれたテープの無駄なスペースを節約できることにも繋がったのである。
この画期的なガードバンドを無くしてベタに記録することから、盛田によって、ベータマックスと名付けられた。また機種名は、トリニトロンと並んでシュポシュポと機関車の様に走るSLと名付けられた。これは、里親となった吉田進の命名である。

また、映像信号は、赤緑青の3色を持っているが、ヒトの眼の解像度に対する感度は、白黒の輝度信号が高い。光では3色を等しく混ぜて白を造り、等しく減らして黒を造っている。
この輝度信号と色彩信号をテープの浅い部分と深い部分に分離して記録しそれを再生して回路で組立ることで、またテープの必要量を少なくする特許技術も沼倉が開発していた。

1週間足らずで、試作品が完成した。通常はメカのリンク機構は、薄い高張力鋼をプレスし、加工変形させ、プランジャやモータや人力を使って、カセットからテープを引出しヘッドに巻き付け映像を記録再生する。
木原の元に居た佐藤晶司は、紙技を使った。画用紙をハサミで切って折り曲げ、セメダインで張り合わせてそのリンク機構を完成させるのである。それは、「カミ技」の異名を取った佐藤の離れ業であった。
井深は喜んだ。

第2開発部の木原の下にいた、エレキの河野文男とメカの芹澤彰夫と、カメラを担当していた青木孝夫が、互いにやろう、と顔を見合わせた。
河野は、早稲田の電気工学を出てNHKの技術研究所からソニーに転じた一人である。ソニーでは、ソニーの木原の下で、当時第一開発部2課が開発していたトリニコンという撮像管を使ったカメラを開発していた。当時、半導体の映像用カメラを開発していた青木と組んで、大河ドラマのオープニングシーンで、ヘリコプターの下につけたカメラで、大きな波間すれすれに飛んで注目された。撮影した映像と共にNHKに売り込んだりしていた。
河野は、エレキやメカのビデオや、半導体の進化に詳しく、アーキテクチャ・デザインにも長けていた。また商品企画や人間関係も良く、下からも慕われており、プロジェクトリーダとなった。

コアテクノロジーとして、互換性に関する幾つかの技術があったとしても、テープはペラペラで安定し難い、高速に回転するヘッドドラムのヘッドの組立て精度や回転ムラがある。
全く異なったデッキで記録されたカセットが、キチンと正しくトラックをなぞる形で追従するためには、テープの走行スピードを自動的にコントロールするサーボの仕組みが必要であった。
これは、制御回路とメカの総合的な自動制御システムが要求された。その役割こそ、1/2インチのVCTの基本のアーキテクチャで、こうした全体を見晴らせるエンジニアとしてメカ屋の芹澤彰夫がサブ・リーダを担当した。

青木孝夫は、大崎のスタッフの力をかり、量産の立上の準備を兼ね、試作品の組立作業を一手に引き受けたのである。これにより、エンジニアは、試作作業から解放され、技術のバージョンアップは、加速できた。トリニトロンの時は、全ての問題は、設計に起因するとして、設計陣が製造技術から製造の現場の責任者へと業務の進展にあわせて異動した。
逆に、ベータでは、設計開発部隊と次の製造を担う青木Gp.が試作専用のパイロット製造ラインを造り、製造方式をパラレルに開発する体制を採った。そして設計が生煮えであっても、全て製造が引き受けるとしたのであった。

それが、ベータマックスプロジェクトのコアチームの結成の瞬間だった。
1972年末に、3人は青木の家で、すき焼き鍋を囲んで、年明けに立ち上げる技術準備室のキック・オフパーティを開いた。

しかし、木原には、Uマチックの苦い経験があった。
カセットサイズは、VTRのテープ、ヘッド、回路の全ての要素技術のトレンドを読み切って可能となる総合的技術体系規格フォーマットである。
もし、これをまた他社の要求を入れて、崩したら、またコンスーマ市場を開発できなくなる。
木原が主張したのは、カセットサイズを変更しないというこおtだった。その根拠を皆に理解してもらうのは、難しい。
彼の根拠は、「ソニー手帳のサイズにする」と言うものだった。そして河野達に頼んだのは、これで「カセットの金型をお越してから各社を回ってくれ」というものであった。

ただ、これが逆効果となった。このまま賛同すれば、フォーマットとして1/2インチカセットテープレコーダは成功するが、ソニーの独走を許すことになる。

ソニーは、ビデオの信号処理用のバイポーラICの開発を第一開発部3課の石垣Gp.は、同じ1課の技術評価Gp.嵯峨根勝郎のエレキのデジタルコンピュータシミュレーションで、ファインパターンのトランジスタを使ったICの量産を開始していた。
これは、トリニトロンの映像信号処理とも共通で、吉田は、これも他社には売らないと決めていた。

さらに、ヘッドを搭載した回転ドラムを上下で支えテープのパスをガイドするドラムアッセンブリ―も、互換性を実現しフォーマットを保証する心臓部のコア・デバイスであった。

まだNCマシンは高価で、生産性が悪い。フォーマットを保証する数台の母型となる標準機を保存し、さらに、これもまたフォーマットの標準となるカセットテープを保存し管理していた。
つまり、フォーマットとして、カセットテープの互換性を保証するためには、その基準となる録画再生する標準機を管理しなくてはならず、記録再生機の互換性を管理するためには、標準となるカセットテープを保持し管理しなくてはならい。

河野は、量産試作を進め、量産し量販するための里親を岩間から訊ねられた。
VTRの技術は、木原の所から巣立って厚木に集結してUマチックのビジネスを立ち上げようとしている厚木の森園部隊である。
一方、コンスーマ用の量産なら大崎の吉田のトリニトロン部隊である。
河野は森園は知っていたが、大崎には、河野が青木と組んでビデオカメラを開発した時、デザインレビューを依頼した加藤善朗とそのスタッフしか知らなかった。しかし河野は森園に申し訳ないと思いながら、大崎を選んだ。

技術準備室のベータの里親を付託された吉田は、彼我の販売力の差を気にしていた。何としても創業者利潤を稼ぐ意外にない、と。彼は、時間だけが、巨大資本と立ち向かえる唯一の資源であると、井深と同様に考えたのである。

そして、1973年夏前には、量産試作とデザイン・レビューを終え、販売できるところまで仕上げていた。
それには、井深がトリニトロンで開発したF-CAPシステムのフレキシブルPERTチャートが河野のスタッフの大塚博正によってサポートされており、デザインレビューは、岩間の期待に応え信頼性技術標準書を開発しソニーのハイクオリティ&ハイリライアビリティを実現した大崎の信頼性Gp.によってサポートされていた。


1.2 立ちはだかった内部からのバーチャルの壁

ソニーのトップになった盛田は、初めての大プロジェクトで、アメリカの独禁法を怖れていた。
ソニーが次から次とVTRのフォーマットを提案し、遂に、アメリカのコンスーマ用電子企業は、壊滅状態で、アメリカに滞在していた友人達を通じて、産業界ばかりでなく、政府も危機感を募らせていることを知っていたからでもある。
また、ソニーは、五反田のベンチャーの時代から、テープレコーダの用途開発や用法教育の宣伝には、1社でそうした市場を造るには膨大な資金と時間が掛ることを身に染みて感じていたこともあった。

1973年技術準備室が河野によって組織され、4月に新人12人が配属となって49名となった。
盛田と逆に、エンジニア達は、一刻も早い販売をしたかった。圧倒的な販売ネットワークに劣るソニーが、満を持して開発した映像の記録再生が、コンスーマ用のビデオであった。
しかし、それに立ちはだかったのは、組織がおびえるバーチャルな影であった。いま、やるかやらないか、最高経営会議が開かれた。


1)独占禁止法でやられるぞ!

5月になって、発売予定を夏に開始したいと、経営会議に具申した。
経営会議は、社長になった盛田以下井深以外の取締役で構成された最高意思決定会議であった。

結果は、ソニーが単独で新しいフォーマットのVTRを出すと、アメリカから独占禁止法でやられるので、開発を延期とするというものであった。
多分これには、当時カラ―テレビのダンピング問題で一端ソニーだけが白となったが、倒産した企業の労働組合がその裁判自体を買い取って、改めてソニーを含め提訴し直しており、それが独占禁止法に発展する気配を感じたからだったのであろう。


2)1/2インチは最終フォーマットで再考すべし

次の月に、河野は大崎の支援を受け、市場を独占できれば、そうなるかも知れないが、そうなったら成功で、その見通しが見えたら対策を考えれば十分ではないかと反論してまた販売開始を具申した。
しかし、この2回目も、技術企画部が準備した「これは1/2インチサイズのカセットとして、テープ、ヘッド、究極のフォーマットとなるのでもっと慎重に検討すべきである」とする拒絶理由であった。
技術準備室のスタッフは、コア技術のトレンドをしらべ、図表にして反論した。
技術の進歩は、一定の法則があったし、全てまだ進化するだろうと。


3)試作に次ぐ試作、延期に次ぐ延期

しかし、第3回目の発売の具申も、良く分らない理由で発売の結論が出なかった。
試作を重ね、デザイン・レビューで大崎の信頼性Gp.による「信頼性レポート」の発行件数は、毎回80点位指摘され、その2/3は解決されたが、新たに1/3位が見つかってはいた。しかし、20点位になり、量産と量販に自信があった。
ただ時間が無駄にすぎれば、生産力と販売力に優れた競業他社が迫ってくることは判り切っていた。


4)オイルショックの到来

そして第4回の10月、遂にオイルショックに襲われ、プラスチックが暴騰し始め、マスタープランの見直しするよう要請が下った。

しかし、それも目標価格は明確でソニーのエンジニアは必ず達成できると退けた。ソニーのエンジニアなら、目標が明確でその設定された背景や哲学を共有できていれば、大崎工場の加藤善朗が描いたマスタープランは必ず達成できると確信をもっていた。
このとき、既にマスタープランに予定されていた15万円の壁に対するプロジェクトを、河野は、内部に鬱積するエネルギーを爆発させるように、ビデオの素人集団と言われた50人を2分し、競わせたのである。


5)PALシステムへの対応策は?

第5回は、ヨーロッパフォーマットへの対応に関してであった。
当初、木原の基本設計は、NTSC向けのフォーマットであって、ソ連とフランス向けのセカムや、その他ほぼ世界中を制覇しているドイツ、オランダイギリス勢のPALシステムのフォーマットを開発する必要があったのである。

開発戦略会議が開かれた。主催は、会長になって実務から離れた井深に代わって新製品開発プロジェクトの発案と企画推進を担当する技術企画部長となった盛田正明が担当した。
会議は、紛糾した。第一開発部3課は、得意のICによってNTSC信号をPALやセカムに変換する案や、どうせ互換性が無いのであるから新しくカセットを大きくする案や、CV等で使ったラインスキップで画質を少し落とす案などが議論された。
しかし、結論を得ないまま、お開きになって、河野がベータの準備室に戻ってきた。

「河野さん、ちょっと見て下さい」と、中山正之がオシロスコープの陰から立ち上がった。
何だ?と思ったとき、中山が説明した。「河野さん、このヘッドは、厚さが半分の不良品です。ただこのオシロ信号を見て下さい。きちんと出ています」と。

中山は、東北大学で磁気記録の権威の永井先生の門下生で、独特な感と理論を持っていた。
記録のトラック幅をを半分にしても、トラックのエッジにこそ、磁気記録密度が高くなっており、信号のパワーが半分にはならないのではないかという理屈であった。
彼は、仙台工場に居た仲間と連絡をとって、ヘッドが欠けて半分になった穂良品を集めて送ってくれるように頼んでいた。丁度7階で技術戦略会議が社内の専門家を集めて議論の最中に、欠けたヘッドが届き、中山は良品の回転ドラムの良品ヘッドとそれを差し替え、映像を記録し再生したところだった。
河野は、大きな目玉を見開いて、まじまじと、中山の顔を見て、深くうなずいた。凄いぞ!と。

ヘッド幅が半分になり、記録トラック幅が半分になれは、PALやセカムも実現が可能になるが、NTSCでは、1時間録画が2時間になることを意味した。
実は、この事件と言うかブレークスルーはとんでもない問題、つまりベータとVHSが生死を掛けて闘うことになる長時間競争への戦闘開始の進軍ラッパでもあって、これが、結局、VHSとの記録時間競争の技術競争の幕開けに繋がって行く。
VHSが登場し、日本でもアメリカでも、VCRの市場は活気づいた。

それが長時間競争の開始を告げたのだった。ベータが1時間から2時間位なれば、2次間おVHSはカセットが大きいので、4時間が可能になる、松下やビクターはソニーの特許を全てフリーで使うことができる。ソニーが4時間に出来れば、VHSは8時間にでき、差は開くばかりであった。


1.3 開発を遅らせるべく方針変更「もっとテープを薄くせよ」

しかし、遂に、第6回目のベータの延期決定が覆えされるに及んで、盛田はカセットサイズの変更の方針を固めた。あるいはそれまで45分しか録画時間が無かったのを、60分としたのかも知れなかった。(関連資料を調べる必要がある)

それは、1974年の初めであった。ベータ開発を推進してきたスタッフも、技術論やその間あったオイルショックによるマスタープランの見直し等の経営工学的な議論には反論できたが、会社の方針には、従う以外にない。

いずれにしても、テープの厚さを薄くするという方針決定は、企業規模の大小を問わず平等に与えられた”時間という競争資源”を自ら放棄するという致命的な決定であった。

本体のテープの駆動系の2本のスピンドルの間隔を狭くすると、テープの走行系の自働制御のサーボ系全体の最適化設計のやり直しとなる。ヘッドの回転ドラムはもちろん、テープの走行のリファレンスガイドとして互換性の要である固定ドラムの微妙な3次元カーブの最適化設計もやり直しとなり、アーキテクチャの全面的見直しが必要になった。
いずれにせよ最も厳しかったのは、テープを薄くする結果の副作用が出現したことであった。テープのステフネス:曲げに対する強度は厚さの3乗に比例する。
案の定、画揺れ現象が出現して、そのため、1年以上が空費されることになった。

ソニーは、松下幸之助からの返事を待ち続けていた。実戦部隊は、毎月の経営会議が、スタッフが忖度した理由を並べ、ベータの開発の延期を経営会議で決議した。しかし、大崎のスタッフの力を借りて、毎月反論し、最高決定会議を覆しつつ、一刻も早い販売への準備を催促した。
こうして1年半が経った。ようやく、盛田もしびれを切らせてゴーサインを出したが、すでに相手の包囲網は完成していた。

松下とビクターは、VHS:ビデオ・フォーム・システムという別のビデオカセットレコーダの別フォーマットを開発していた。
岡山にしっかりと自動化したVHSの近代化した大量生産工場を、後にパナソニックの社長となる谷井昭雄氏が完成させていた。
四国寿電子の「四国の天皇」とも呼ばれた稲井隆義氏が既に販売していたカセットを市場から回収し、アメリカ向けの低価格の質素な工場を整えていた。
ビクターは、高価格の高品質高機能シャーシを開発し、ヨーロパ向けと国内の高級志向向けの製品を開発していた。

盛田が最後に、松下幸之助氏を訊ねた時、彼は、ベータが一時間であることを指摘した。実はソニーはそのために、こっそり駐車場の車の中に2時間用の試作器を用意していたが、取りつく隙はなかった。見送った彼は、2階のロビーから、バイバイと手を振ってくれた。

それから、有名となるベータ対VHSのフォーマットの仲間作りの合従連衡競争が始まった。日立は、VHSについた。
結果としてベータ陣営は、ソニーを規格主幹として東芝・三洋電機・NEC・ゼネラル(現・富士通ゼネラル)・アイワ・パイオニアがだった。
VHS陣営は日本ビクターを規格主幹として松下電器産業を中心にシャープ・三菱電機・日立製作所・船井電機・ニコン・オリンパス・赤井電機などが、それぞれ加わった。

VHS陣営に加わった日立やRCAは、そのフォーマットライセンスには、特許のライセンス料は一切をソニーと交渉しなくてはならないという事実を伝達されて驚いた。

βⅠモードの画質は、VHS標準モードと比べ、S/N、解像度は数値は同等であったが、視覚的には勝っていた。
ベータマックスは、すぐさま2倍モードに相当する「βII」モードを開発・搭載することでVHS方式に対抗したが、βIIモードの再生処理を基本とした「ベータ方式」として規格を再構築した。

販売店の差は大きかった。ソニーの1,000~2,000店に対し、松下だけで40,000から60,000店もあった。

宣伝も理屈が多く、楽しみ方のモチベーションを訴えるのではなく、”タイムシフトの機能”の説明が主体となっていた。
例えば、子供がしぶしぶと勉強机に座っている横に、お母さんが箒をさかさまに持って立っており、「宿題をしたらサザエさんを観させてあげます」と怖い顔で立っているアニメであったりした。
また、ベータ1をL250、ベータⅡをL500とし、テープの表示を長さ(フィート)で表したために録画可能時間が分かりにくかった。

そしてベータHiFi移行、ベータ方式は初期のテープとの互換性がなくなったが、VHSは、最後まで互換性を維持したのも大きかった。

しかし、VHSの方が映像コンテンツのラインナップが充実していた。1978年に渋谷ののレンタルビデオ屋ではベータが6割でVHSは4割の展示スペースであった。
ところが、その展示棚の裏に回ったときそこで見たのは、アダルトビデオで、そのほとんどがVHSで、ベータは申し訳程度で、圧倒的にVHSで占められていた。企画スタッフはベータは負けるかと不安に襲われた。

ソニーは、盛田がアダルトビデオを許さなかったからである。
それは、初代の社長の元文部大臣だった前田多門や、クリスチャンであった井深大や、盛田酒造の当主としてまた海軍将校だった盛田昭夫にとって、企業人格に関わるものだったからである。
こうした企業文化は、社員全員が議論することもなく共有していた価値観によるものでもあった。


◆ 特許料によるキャッシュが流れ込んできた

世界中のテープベンダーも続々と参入した。
日本では、フィルムメーカのコニカ、富士フィルム、TDK、花王などであった。アメリカの3M、ドイツのBASF、韓国のセンキョン等であった。

しかし、特許のライセンス料は、こうしたテープメーカからももたらされた。特に強力だったのは、”蟹の褌”とあだ名されたカセットの蓋が明いてテープを蟹が子どもを守るようにやさしく下から支える鎌谷による発明等である。

そして、このライセンス料を払わずにテープを供給できたソニー仙台工場を有する磁気製品本部は、まさに大きな利益を得た。本社には、VHS陣営が活躍すればするほど、3ケタの億円に登る大きなキャッシュが毎年流れ込んできた。
こうして、ベータの本体が衰退する中、大きな利益をソニーは手にすることができ、ホーム・カセット・ビデオの莫大な創業者利潤を手にすることができたのである。


1.3 追いかけてきたVHSとベータとの闘い

1) ピクチャーサーチ、高画質化、高音質化

ソニーが2時間をだすと、VHSはその技術で4時間ができた。ソニーが3時間を実現するとその技術で6時間ができた。時間競争はそこで止まった。

そうなると、幾つかの番組が1本のカセットに詰め込まれて、目当ての番組を探すのが大変となった。
ソニーは、このテープの欠点を補うため、ピクチャーサーチという機能を開発した。
目的の番組やシーンを探し出すためテープの速送りの最中でも映像が見える技術である。これも画期的であったが、VHS陣営はこれもマネすることができた。

日本で始められたテレビのステレオ放送の記録再生方式も同様であった。
また、Hi-Fi化も同様な道を辿ることになった。
いわばVHS陣営は、ソニーという開発投資をしてくれる研究所を持っていたようなものでった。
画質や音質の向上に、ヘッドや次第に分散モータ化され、ソフト化されたメカトロの進化も大きかったが、それらも全てVHSへの貢献ともなって、家庭用ビデオカセット市場の拡大には貢献した。


2) ベータの反撃と中期計画の自縄自縛の自家中毒

1977年ころ、河野は、マスタープランに沿うように、コストダウンプロジェクトを興した。目標は、開発期間を半年、価格を約半値の15万円とした。
少ない事業部を2チームに分けた。河野は、方や ”0.5ゼロ半のメカ”とし、もう一方を ”ニュー開のメカ”命名し、対決させたのである。これの部下を育てるサーバント・リーダシップのプロジェクトの運営法であった。

わずか5か月で、両チームは、共にそれぞれ目標を達成した。
感激した河野は、事前には必ず片方に勝利を言い渡すといっていたが、両チームを共に優勝杯を与えた。

当時、里親だった吉田進は、本社に異動となり人事や総務等を担当する専務となった。替わって盛田がテレビビデオ事業本部長となって大崎に異動した。沖がテレビ事業部長となり、製造を担当するころになった。

15万円を達成で来るという報告は、すぐ、テレビビデオ本部長となっていた盛田正明に報告され、戦略会議が大崎工場の中央会議室で開かれた。
現在24万円のベータのVTRを、15万円に切り替えて出したいと技術企画担当が提案した。
盛田が右の経営戦略担当を振返った。「現在、製品在庫が4万台あります」
「では、それは東京湾に沈めて下さい」と技術企画担当が言い放った。
まさに、在庫は自家中毒を起こす。新しい技術を市場に運び出すことを妨げ、技術はそのまま腐って行く。
それをさらに増幅したのが、中期計画という仕組みでった。

ベータ陣営は、すでに劣勢を感じていた。そして、基本としていた中期計画のシェアー70%は、危うくなっていた。
マスタープランでも、シェアーは次第に下がり、カラーテレビのように最終的には15%か上手く行けば20%に向かってソフトランディングしてゆくシナリオであったが、落ち方が速すぎた。

実は、本社の経営戦略部まで巻き込んで、それを繕うように市場を小さ目に算定し、出荷を大きめに計画して、見かけのシェアをキープしたと思い込もうとしていた付けが回ったのである。
製番管理の真面目な運用をないがしろにしていることを、大崎の技術企画の担当者は、快く思って居なかったのである。
まさに、井深が”計画は無い方が良い”と、計画統制と官僚制を嫌っていた事態が起きたのだった。

盛田が重い口を開いた。
「実は、ベータの同盟軍の東芝さんと三洋さんが最近新製品を出したばかりで、両者に相談をしてみた。東芝さんは、27万円で3ヵ月前に出したばかりでちょっと待ってくれんかということだった。
三洋の井植さんは、つい先月24万円で新製品を出したばかりだが、”ソニーさん、どんどんやってくれなはれ。うちもついて行きますから”ということだった。ただ、大事な東芝さんを出し抜くようなことは難しい」 として沈黙した。
かくして、技術者達が頑張った千載一隅のチャンスは、失われた。

サーバント・リーダーシップとは何か。ソフト・アライアンスのコストとは何か? フォーマット・リーダのパーパスとミッションとは何か?
本来、関係者全員が得るべき価値を、目先の利害を超えて、真の価値をもたらす使命と責任をどの様に果たすべきか?

しかし、「ゼロ半メカ」のシャーシを使って22万円の新製品を出し、ビクターの27万円の高級機に対し「N開のメカ」を使って、ハイフィーチャの新製品を出すことができた。
そしてそれまで、大きなモータからリンク機構で力を各所に分配するアーキテクチャから、「ゼロ半メカ」では、多くのプランジャーでバシャバシャと操作できる方式が開発され、「N開のメカ」からが、多くの小型モータに分散させた全く新しいアーキテクチャが実現された。

これは、いわば飛行機型のモデルで、全体を細かなモータを張り巡らせたワイヤーでセンター制御する未来の自動車のモデルの方向を示唆するものであった。
軽量化でき、パシャパシャと鳴るプランジャの寿命試験のようなメカのアーキテクチャから、全てがタッチで動作でき、リモコンでも軽快に操作できるVTRの誕生に繋がった。

VHSの戦略的布陣は、全世界を睨んで、徹底したものであった。
日本の高級機とユーロッパはビクター、中堅大量製品は松下岡山工場や日立等が、そしてアメリカ向けの中堅機はRCA、そしてローエンドは松下四国寿電子等が受けもつ体制となっていた。

ソニー内部でも、いわばビデオのプロは、厚木の情報機器事業部に集結しておりベータの闘いにそこから参加したのは、ポータブル化を目指した一人のエンジニアの派遣された滝田だけであった。
せめて、ビクターへの対応を森園部隊に受け持ってもらえないだろうか?追い詰められたベータや大崎のスタッフから、厚木工場と大崎工場で、世界市場を分担するドラスティックな案が飛び出した。

しかし、それは、次期ソニーのトップの継承に関わる問題でもあった。盛田正明は、中央会議室の議長席の椅子に、深く沈み込んで瞑目する以外に無かった。
また、森園部隊にしてみれば、いわば素人集団が開発した1/2インチのベータがビデオの記録メディアの守護神となることはありえないと言う感情を持つのも仕方がなかった。
そしてなにより、3/4インチのUマチックでも不十分な放送用のより高付加価値の高画質の1インチΩのビデオシステムを開発中で、世界中の放送局の電子化を実現するのに、手一杯であったこともある。


3)1984年 ”ベータマックスはなくなるの?”

ソニーの宣伝部はベータの苦境を見て、1984年に、4日間連続の新聞広告で「ベータマックスはなくなるの?」、「ベータマックスを買うと損するの?」、「ベータマックスはこれからどうなるの?」といった問いかけに「答えは、もちろん「ノー」と。
「もちろん発展し続けます。」というキャッチコピーを入れ、最終日に「ますます面白くなるベータマックス!」という展開で終わる連続ストーリの奇抜な新聞広告を行った。

これは、根強いベータの判官びいきのファンや技術に明るい批評家には、強い関心を引き付けることには成功した。
しかし、世間の流れを変えるよりも、これにマスメディアが乗ったのである。本来、ジャーナリズムは、”新しい事実を判り易く面白く伝える”ことである。
しかし、日本のマスメディアは、”視聴者が見たいもの聴きたいことを、ちょっとだけ新しいことを、ちょっとだけ細かくを伝える習性が強い。
このソニーの宣伝部が採った独自性を狙ったキャンペーンは、まさに、その飢えたマスメディアの群れに撒き餌を撒いたようなものであった。
これは、欧米に比べ、アジアの民族に共通のメディアに対する価値観ではあるが、特に日本社会の価値観の特徴でもある。
これは、ベータの実勢以上の劣性を世論として形成することになった。そしてその後の幾つかのチャンスをも潰す効果をもたらした。