SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
SONY Myth, It's an innovation story of media

1章
ディスプレイ・メディアの用途と様式は共進化する
☆☆☆ その4 ☆☆☆


3.2 シリンドリカルの死の谷の先に氷壁の山脈があった

しかし、トリニトロン電子銃につぐアパーチャグリルの決定は、死の砂漠の谷を越えたが、その先に待ち受けていたのは、まるで数千メータを超える幾つものロッキーの氷の山脈であった。


1)シリンドリカルのガラスバルブの製造の壁

最初の氷壁は、シリンドリカルのガラスバルブの試作と製造問題であった。

当時、日本で1300度の熔けた鉛ガラスを成形するための金型を設計できるエンジニアは、旭硝子が独占していた。
これは国の方針でもあったが、あながちこれは日本だけの特徴でもなかった。化学先進国であったフランスではサンゴバンが、アメリカではピッツバーグガラスがほぼ独占的な状況であった。
岩間が、旭硝子に打診した。しかし、「断られた、よ」と、吉田に報告があった。

吉田は、知り合いの長田氏が琵琶湖のほとりで計画を進めていたNEG:日本電気硝子に相談を持ちかけた。
NEGとしても展開が予想されるカラーテレビ用のガラスバルブへの進出をしたかったが、その金型を用意する手立てがなかった。
しかし、大越には、5インチ、9インチ、4インチ、7.5インチ等のガラス強度の知見があった。ガラスの専門家の住吉係長も居た。

大越は、早速、12インチの前面のガラスパネルの1/4の部分だけを粘土を水で捏ねて、パレット板の上で手を動かし盛り上げた。
それを工作部の太刀川部長の所に届けた。太刀川は、当時高価な3次元のNC:ニュウメリカル・コントロール・マシンに掛けて数値化し、12インチ全体の型の図面を起こした。
そして、大越は、タクシーに乗って、滋賀県のNEG工場にそれを届けた。1刻、1時間が惜しかったのである。
ガラス成形用の型の金属は、耐熱性の固いニッケルニオブ合金の塊から切出して作る。ただ、そのどこかに巣(泡などの隙間)があるとNGとなるため、時間が掛り高価でもある。
しかし、それもソニーが開闢以来伝統として来た、チャレンジ精神に共感するソフトアライアンスで乗り切れたのである。


2)アパーチャ・グリル:AGの量産の壁

次の問題は、AG:アパーチャーグリルの量産問題であった。
シャドウうマスクの量産法の開発は、国が支援して、大日本印刷が担当し、それはNHKのドキュメンタリー風のテレビドラマとして、プロジェクトXともなっている。

しかし、大日本スクリーンは、印刷にとって基盤となる日本のゲージの原型の管理者という老舗でもあった。そこから外された大日本スクリーンの反撃でもあった。
ただ、それも、井深自身が後に”説得工学が必要だ”と感じるまでの困難な峠となるドラマを迎えることになった。

薄い鉄板とはいえ、塩酸液につけるだけでは、エッチングできない。ソニーも、旧館と言われたコンクリート建ての一番古いビルの地下に、塩酸液を入れた小型のトランク上のタンク槽をコンベア型クレーンにつるして連続プロセスのテストプラントを作ってみた。しかし、エッチングのプロセスを進行させることができなかった。
プロジェクトXでは、大日本印刷では、屋上でシャドウマスクを吊るし、漏斗で塩酸液を垂れ流し型にして成功したというエピソードを伝えている。
ソニーは、タンク槽の中を拡散することはしたが、まさかエッチングの廃液を大量に垂れ流すという発想には至らなかった。

大日本スクリーンは、ソニーの失敗の設備を見て、独自にそのプロセスを開発した。
やがて、その試作品ができて、重役さんを含む3名の方が、AG担当の中山係長のところに数枚のサンプルを紫の風呂敷に大切に包んで届けに来た。
中山はその1枚目をつまんで、明るい方に透かして見た。
「駄目です。」といって、脇に除けた。続いてもう一枚「駄目です。」が続いた。そして最後がやはり駄目です、となったとき、重役の顔色が変わった。挨拶もなく、お帰りになられた。

これには井深が驚いた。もし、大日本スクリーンが降りてしまえば、このプロジェクトは頓挫する。
井深は、経理担当の成田専務に、かき集められるだけの現金を用意してくれるように頼んで、それを持って新幹線に飛び乗った。
ソニーの役員の中で、このとき井深のプロジェクトには、盛田、岩間を含むほぼ全員が反対であったが、中立を保ったのは、経理担当の成田と人事担当で井深が東通工を立ちあげた7人の仲間だった樋口だけであった。

成田は、三井銀行等を回り1億円をかき集め、井深に手渡した。ほっとして、タクシーを旧館前の西口玄関に待たせてあったタクシに乗って山手通りに出て左折した時、後ろから来た車に追突され、ソニーも、ソニーの番頭も首が回らなくなったと、後日語っている。

井深は、大日本スクリーンの京都本社工場と鳥取工場を訪問した。女子社員達は、井深が来ることを知っていて、こっそり振り替えって写真を撮ったりした。井深は、その晩は京都に泊まり、株への投資も現金を見せて説得した。
これには資金提供もあったが、目標とその先のビジョンを共有して祭りのようなプロジェクトに参加を促す、”ソフトアライアンス”の一事例の1つと言ってよいように思われる。

帰社すると井深は、中山に、「君が中山さんですか?」と顔を見て、鳥取の工場に行って、AGの精度に着いて、説明をしてAGの大切さを理解してもらうよう指示した。
中山が行ってみると、エッチング後の平面化処理の作業員が炉にスダレを投げ込んでいるのが見えた。それがスダレの打ち傷や乱れの大きな原因であった。中山は、AGの乱れが、画質にそのまま表れて写ることを説明した。
AGの歩留りは、みるみる向上して行った。

AGは、呼びにくいアパーチャ・グリルに替わって、別名”すだれ”と呼ばれていた。
200ミクロン幅の300本のスリットが入ったスダレは、厳しい精度が要求される。通常ヒトの目には、1ミクロン位の誤差は光の波長以下で眼に止まらない。ただ、それが、整然と並んだ状態になると、そのムラが眼に着いてしまうのである。
それは、スダレの上側をもって持ち上げ、透かして見ると、1本では眼に着かない顕微鏡でも測定できない乱れのパターンが、見えるのである。
何種類かの限度見本が選別され、特性対要因効果のコミュニケーションができるようになった。


3)アパーチャ・グリルの揺れが止まらない

またしても実用化の段階で問題が発生した。アパチャーグリルの金属縦格子が振動を起こし、電子ビームのねらいが定まらないために、ブラウン管の色むらが生じてしまうのである。

中山は、それが、AGのリボンの熱膨張によるものであるという証明をした。寡黙なこの人が採った行動もまた過激であった。
ガラスパネルにAG組立てをはめ込んで、開発1課のみんなが良く通る通路の机の上に立てかけ、そこに100ワットのランプを当て、AGの1/3位に当るようにした。その部分のAGリボンがスルメのように伸びてたるんでしまうのである。
スイッチを切れば、何事もなかっら用に元に戻る。みんな立止まってスイッチを入れたり切ったりして確認した。
部長の吉田は、「ふーーんと、見て通り過ぎた」。また起きたか?と言った具合であった。

中山は、担当係長として、衆知を集めて議論した。集まったのは、電子管開発部第1課の大越Gp.で手の空いた女子の補助作業員の井上や何でも助っ人役をこなす係長の梅木や、東大の数学科を出たが朝から晩まで文庫本を読んでいた若者等数人であった。

古い10センチ位もある分厚い頑丈な木製の作業台にブルーのビニールシートが掛けられており、椅子も背もたれのない6人掛けのベンチスタイルの2本に3人、4人と向かい合って座った。
彼らを見て、中山は、黒板を背にして、テーマを書いていた。
”AG揺れを止める”と。
そこに、社長の井深が通り罹って、ベンチの椅子の隅にチョコと座って、すぐに手を上げた。
「ハイ、井深さん」と中山が指名した。
「細い針金をメッキで付けると良いよ」と。
「それは、ダメです。ビームが当れば伸びてしまう、他のアイデアは?」と、中山は、スルーした。

しかし、井深も中々あきらめない。2階の部長室の吉田に直訴に向かった。
その後、井深は、課長の大越に針金を渡して説得を続けた。大越は井深が音響や振動の専門家でもあることから、それをヒントに考えた。
ブラウン管の中は真空で、一度揺れ出すと空気抵抗が無いので、揺れは収まらない。何かに摩擦させて制動する以外にない。

大越はすぐ、100ワットの電球を何個か買ってきてもらい、それを割って、タングステンのフィラメント・コイルをエイヤーと引張って引き伸ばしたものを黙って中山に手渡した。
中山は、それを板バネを造ってその先に熔接し、フレームの両端で引っ張るように固定した。揺れは、収まった。
タングステンは、ビームが当ってもその電荷を貯め込まない性質をもっているので、その影がヒトの目に着きにくい。
また、高温に耐えて、電球用に大量生産されコストも安い。
懸念は、タングステンのコイルのピッチとAGのピッチの干渉であったが、80%を占めるAGの表面に、コイルが2~3個当たってくれれば、摩擦で振動を止めてくれる。
これは、中山と井深と大越の3人の不思議な体験型集合知メカニズムによる共同発明となった。


4)アパーチャ・グリルを張るAGフレームの量産の壁

アパーチャー・グリル:AGを引張るAGフレームが迎えた量産の壁は大きな問題となった。
AGをゆれないようにピンと張るためには、1本に着き最低200グラム以上で均一に引っ張らないといけない。300本となると60キログラムとなる。
これを弓の弦とすると弓の幹に当る部分がその力を蓄えるように一度撓めて絞り、AGを張り付けその撓めをリリースする。このいわばバネの弓の胴の部分をAGフレームと呼んだ。

AGの上下を電気溶接して組立てるAGフレームの量産法が大きな問題となった。

そもそも、ソニーが五反田に移転したとき、周辺には、いろいろな中小零細企業が大田区から地続きで広がっていた。
ソニーの隣り近所の山手通りにも、ガタピシと音を立てて何か金属の加工や組み立てを作業をやっている街工場が多かった。
試作購買課は、課長と女性の事務社員くらいの所帯であったが、良くそう言うところを知っていた。
大越がポンチ絵を書いて渡すと、2~3日後位には、簡単な試作品なら加工して届けられた。

AGフレームは、ブラウン管の中で、AGを引張っているので、近くを色信号を持ったビームが通過するそれに影響を与えない材料であるステンレスでなくてはならなかった。
大越は、AGを上下2本のブラウン管の局面に沿って引っ張るAGフレームの上下の一対をAメンバーと命名し、それを支えて弓の竿のように一度撓めてAGを引張る2本をBメンバーと呼んだ。

この4本をステンレスの鋼材から加工するのに、研精舎という近所の工場に依頼した。
研精舎は、これをシェーパーで切削加工して試作してくれた。しかし、これでは、月産200~300本分しか加工できない。これでは、大量生産できない。
次に、押し出し成型法をする会社を見つけた。これは、ダイスという金型の隙間を造って金属棒を指し込んで少しづつ絞ってゆく方法であったが、この加工用ダイスの磨滅が大きく、削り出しよりは良かったがが、せいぜい月産1000セット位であった。

吉田が思い出したのは。荏原製作所の精密鋳物加工のロストワックス製法であった。
能登の流れを汲む荏原製作所は、仏具等で昔の日本の鋳物センターであった富山県で育った吉田の故里に近かったので知人がいたのである。
これは、凄かった精度も十分であった。ゴルフヘッドの精密成形法としても知られている。

そもそも、中国の長江文明の古蜀王国で紀元前2000年頃に栄えた三星堆遺跡で発見された高さ4メートル位の大きな青銅神樹と言われる樹木の青銅像がある。
これもロストワックス法以外で造られたものとはとても思われない。と言うのも、木の次第に細くなる幹や枝を入れ子型等では現在でも難しい。

ロストワックスは、その名前の通り、蜜蝋で型を造り、その外側を粘土等で固めてそこに解けた金属を流しこめば、蝋が熔けた部分に金属が流れ込んでくれる。これを冷やせば、元の蝋の形が成形されて残る。
蝋の形を正確に加工できれば、金属も精密に正確に再現できる。そうした蝋型は金蔵ができると消滅してしまうが、母型を陶器か金属で精密に用意しておけば、蝋型を大量に作って置けば量産が可能になる。
ただ、吉田は、もっと良い構造でもっと量産性の高い方法があるように思った。

吉田は、工作部の太刀川に、相談した。太刀川家は幼い井深を養育し、ソニーの操業には3人の息子たちを参加させ、当初の大株主でもあった。吉田は、この3男の太刀川と気が合った。ソニーの本社工場、大崎工場、品川工場のメカ屋を集めて、ブレーンストーミングをやってこの問題を議論してくれないだろうか、と。

盟友の頼みに太刀川は、すぐに呼応した。太刀川の呼びかけを受け、都内の3工場からばかりでなく、厚木工場や仙台工場のメカ屋達までが、工作部の2階の会議室に数拾人ほども集まった。
やはり、太刀川の剛毅な人柄もさることながら、井深が直接関わっているプロジェクトには、自分の仕事をちょっと放り出しても協力したいという気分が、あったのは否めない。

着磁性がないSASというステンレスで、A,Bメンバーとも微妙な3次元の形状で、ミクロン単位の加工精度が要求される。
しかも月産1万5千セットから上手く行けば、3万セットまで量産したい。
いろいろアイデアが出されたが、専門家のアイデアは、切削するか、挽きだすか、押し出すか、叩いて鍛造するか等で、ただでも加工が難しいステンレス材である。

皆の議論が盛り上がったが、静けさが場を包んだとき、吉田が口を開いた。
「Bメンバーを強度が有って軽い筒状にしたい。砂型を量産し、ステンレスを溶かして、パイプを連続鋳造できないだろうか?」
全員が、どーぅと、笑った。鋳物でもロストワックスのような精密鋳物という観念に凝り固まっていたとき、砂利で造った砂型というトッピも無い素人的なアイデアに、不意を突かれたからである。
しかし結局、最終的に、これが本命となった。

加藤が開発したF-CAPsの主要なツールであるデシジョン・ツリーチャートで、この研精舎、ダイスの引出し法、荏原製作所のロストワックス法、住友金蔵が開発した砂型のパイプ方式の全てが、パラレルに開発を続けることになった。

これは、最大ゲインの最大化と最大リスクの最小化戦略であったし、このソフトアライアンスに参加した全ての企業にとってもトリニトロンが大量生産に乗った後も、供給し付けて頂くことで、成長に繋がったのである。
それには、協力を惜しまなかった仲間に対する信頼を皆が失わなかったからである。


5) 氷壁の先には深い峡谷が待っていた

念願のガラスバルブの量産試作が、日本硝子から完成した。1967年10月15日の夕方近く、吉田は、前面のガラスパネルと後ろのファンネルを2個づつを段ボールに入れ、新幹線で運んできた。

中山がこれを酸洗いし、AGフレームをこれに組み付けるためのセラミックピンにガラスフリットを塗って炉に入れ熔着し、パネルにAG組立てを装着して井上に渡した。

井上は、それにRGBの3色のストライブ状に蛍光塗料を、感光し現像して蛍光面を作成して中山に返した。
中山は、これにガラスフリットを着け、ファンネルを載せて炉に入れて熔着した。

これに宮岡が用意したトリニトロン電子銃を松本に渡し、松本がファンネルのネックに電子銃を封じガスバーナで、双方のガラスを熔かして封じ、ほぼブラウン管の完成形に近い形になった者を中山に返した。
宮岡は電子銃の開発担当で、松本は、ガラス加工の職人だった。大越もこうしたガラス細工はお手のもので、簡単な化学薬品や真空実験に必要な実験器具は、ガラスを熔かして手作りしていたが、半導体製技部時代から吉田のGp.ではそうした職人を大切にして来ていた。

それを2本、受取った中山は、真空ポンプに着けて、真空にし、また松本がガラスパイプを封じて、ブラウン管を完成させた。
梅木が、これを2階に運び上げ、町田の測定台に上げた。
その時、外は夜が明けて、もうすっかり明るくなっていた。
吉田、大越、中山、井上、宮岡、加藤やカソード担当の2課長の植野等も集まってきていた。

町田が、電源のスナップスイッチを入れた。美しい色、明るい画面。誰1人として口を開く者はなく、食い入るように画面を見つめていた。
完成の知らせを受け、井深も駆け付けてきた。
「皆さん、ご苦労さんでした……。」 激励の言葉をかけてやりたいと思うものの、井深はそれだけ言うのが精いっぱいだった。
もう後は声にならない。思えば長い回り道をしたものだ。 


3.3 絶壁の峡谷を超えるためのF-CAPsの進化

しかし、これからさらに、10も20もの峡谷を越える必要があった。それらは、7章で述べたような以下のようなものであった。

#1. AGが炉の中で錆びついてしまう
#2.フレームが着磁し色むらを起こす
#3.光が真っ直ぐ走らない
#4.蛍光体が上手く塗布できない
#5.衝撃テストでAGフレーム組立てが外れる
#6.ガラスバルブが爆縮してしまう
#7.画面の色ムラがでる
#8.ブラウン管の放電
#9.その他 

こうしたいわば体験的集合知メカニズムとでも言うべき奇跡的な解決をもたらしたものは、何であったろうか?
それこそ、井深が目指そうとした、F-CAPシステムによる方法の効果であった。
1)最大ゲインの最大化と最大リスクの最小化プランニング
2)プロジェクトの進捗を共有する非計画プログラミング
3)データに基づくパフォーマンスのプロスペクティング

また、プロジェクトのオペレーションにおけるマネジメントの井深、吉田、大越、加藤などのいわば”サーバント・リーダ”とでも言うべき、プロジェクトとそのメンバーに対する献身的なマネジメント思想があった。

また、プロジェクトメンバー達は、計画と現実の状態を全員がほぼリアルタイムに把握し、また、それぞれが、自らの課題を抱えながら、誰がどのような問題を抱えているかを理解していた。
そして、全員員が、明確な達成目標を見つめており、現実の問題をその問題の事象に自らをそこの部分に投入し入り込んで、また問題の現象の全体を俯瞰しながら、その前後のプロセスの立場から、問題の本質に切迫して行った。

その思考と行動は、いわば他の人や他のプロセスに対する期待はできず、また、周囲もそれにアドバイスはできても、手助けはできず、見守るしかなかった。ただ、自分だけが投げ出すわけにはいかなかった。
これは、いわば、体験的集合知メカニズムが発揮される条件であるように思われる。
とくに、プロジェクトが進化し、そして進化し続けているという全員の自覚だけが、そのモチベーションとなっていた。

そしてそのソリューションに至るプロセスには、みなある種の同じような思想とモデル化のアプローチを持っていたように思われる。
それは、単なる演繹推論でもなく帰納推論でもなく、それらを組み合わせつつ、アブダクションに帰結する方法論のようなものであったと言えよう。


1) 13インチでは売れない

試作は、毎日4~5本づつ完成するようになって行った。
ただ、5大キーパーツとしてF-PERTチャートにそのバージョンが区別して書き込まれ表現された日々の各担当者毎のパスでは、それらのキーパーツがどのバージョンのモノであるかのデータが、重要になって行った。

それは、試作品としてのブラウン管の評価を担当する町田Gp.の40項目位の、ユニフォミティ、ビームコンバージェンス度、CQF,輝度、ビームスポット解像度、等であった。
また加藤の信頼性Gp.が担当する耐衝撃性、耐振動性、放電性、防爆性等であった。ただ、信頼性Gp.の計測は破壊テストになるので、それを回路Gpに渡すわけにはいかないのでサンプリングされていた。

この中で、ユニフォミティが、なかなか、改善が進まなかった。製品化可能な水準になる歩留りは、10%もいかなかった。それは、各キーパーツのほとんどの部品の寸法精度や、加工国立て精度や、処理プロセスの温度や時間や、処理条件出しのための思考錯誤を、各ベンダーはもちろん、宮岡の電子銃Gp.、中山のAG&フレーム組立てGp.、井上の蛍光面作成Gp.そして中山と大越とが担当した排気封じGp.等の条件出しのための思考錯誤の要因が絡んでいた。

井深は、「1本でも良いものができれば、開発は終わった。後は量産すれば良い」と、世界初のゲルマのグローンのトランジスタの時から、この信念を変えなかった。
ただ、加藤の信頼性Gp.は、「量産するためには、材料、生産設備、加工組み立て作業法およびその作業者の訓練法」に関する標準仕様を得ること。そして再現性の高いプロセスを実現できる標準書を仕上げることが、開発の目的である」として、それらの編集作業まで、F-PERTに記載してフォローしていた。

「開発の目的は、目標の品質・信頼性が得られる知識、つまり様々な環境下でも、不確実性を軽減できる知識の獲得を獲得することである。」と定義していた。
その試作品のパフォーマンスを確認するために、その評価にまわすサンプルを絶対に確保する必要があった。
加藤が、いわばプロジェクトのオーナである井深さんをサポートするため、F-PERTチャートを時々刻々とアップデートする活動を評価Gp.が引き受けたのは、そうしたサンプルの配分計画を握って信頼性Gp.に回す必要があったからである。

さて、しかし、その最後は、それまで、一切の口出しを井深によって禁止されていた営業担当の盛田からの”13インチではなく19インチに出来ないか?”との吉田進への打診であった。
通常であれば、営業担当のトップである盛田には、サンプルをまず渡していたはずである。
しかし井深は、新製品は従来ビジネスのトップ・オブ・ラインその正面から、スタッフ部門は横から、受動的反撃性症候群を示す、いわば組織の生理学的反応を最も警戒していた。

だから、井深は、開発が終わったら皆で、製造へ、製造の立上が終わったら、販売へさらにアフターサービスまで、開発者がそのプロセス全てを開発して行こうと、後にウオータフォール型でないアジャイル型とか、垂直立上等と言われる基本的アプローチを目指したのであった。

吉田は、営業部の主張を踏まえた盛田の打診を、柔らかく、しかし吉田らしい力強さで押し切った。
確かに、カラーテレビの13型の市場は存在していなかったが、マイクロテレビで、その手応えを感じていたからでもあった。





2) セットの開発部門のF-PERT

トリニトロンの回路やキャビネットなど外装を含むカレーテレビセット全体の開発は、第一開発部第4課に異動となった沖課長のGp.だった。
そのGp.は、マイクロテレビの開発を担当していたソニーのテレビの精鋭部隊であった。そこから、沖の右腕であった村井係長以下の何人かと芝浦工場に異動した。そして8インチのマイクロテレビの最初の開発を担当した鹿井は、ソニー傘下となったアイワに異動した。
鹿井はアイワを立て直し、やがてトリニトロンを開発した幹部のほとんどが、大崎を離れた大賀社長の時代に、ソニーに復帰して副社長になったのである。

マイクロテレビの大ヒット作のTV-120のプロジェクト・リーダであった藤本敏弘は、トリニトロンのセットの開発のF-PERTチャートの担当となった。
長さ、2メートルになる開発行動を回路やメカ設計の担当者ごとに、段をとって、時間軸上に布置し、セット開発Gp.のF-PERTをまとめた。
これは、毎週、IBMS/360を使って、更新され、井深や吉田を含め、4課や1課の関係者が共有した。





3) トリニトロン・カラーテレビの商品化発表

この新しいカラーテレビは、「トリニトロン」と命名された。キリスト教でいうトリニティ(神と子と聖霊の三位一体)とエレクトロン(電子管)の合成語である。
そして、遂にトリニトロン電子銃のアイデアが出た1966年末から、1年半が経過した、1968年4月15日、銀座ソニービルにおいて「トリニトロン」の発表会が行われた。内外の記者団からも予想以上の反響を得て、発表会は無事に終わるかに見えた。

ところが、井深が、ここでソニー関係者の誰もが想像もしなかった発言をした。
「発売は今年の10月中、年内に1万台の量産を行う」と。
「冗談じゃない」、技術者たちは、わが耳を疑った。まだ、やっと10台程度の試作の良品ができたばかりというのに、これから半年の間に量産まで持っていくのは至難の業だ。「このオヤジめ!」。吉田は思い切り、井深の顔をにらみつけた。

これは、いわば井深流の説得工学の方法の1つだった。プロジェクトチームが、どんなにサーポーティブ・リーダーシップに満たされていても、また、達成目標がただ一つの明快に設定されていても、また、プロジェクトが時々刻々進展していることをメンバーが実感し共有していても、それに関係なく世の中は動いて行く。

そして、カリスマ性があった井深にしてもよく使ったのは、外部の目や外部との約束や、外部との関係による楔であった。
たとえば、記者発表やそれによる世間の目や世間からの期待は、井深は自らの説得力の限界を補ってくれるのを良く知っていたのである。

”そんな吉田たちの心中を知ってか知らずか、井深は1人、晴れ晴れとした顔をして澄ましていた。しかも、その顔には、「お前たちなら、きっとやれるさ」と書いてあった。”と、ソニーの源流には、書いてある。
実際、吉田を始め、大越や宮岡等は、あきらめと安堵ともに覚悟を決めたに違いない。
実際、ブラウン管もまだ問題山積であったし、回路やセットも問題山積で、その後の奇跡的な開発活動は、まさに、F-CAPsがあってこそ成し得た活動であった。


4) 大崎工場は悲観論で渦巻いていた

幾らTV-120が売れたとはいえ、クロマトロンの生産のスタートアップでは、大崎工場は、300人を抱え、設備投資もあり、ソニーは、財政的にも逼迫した。

だが、ソニーが常に新しい産業ジャンルを開発しようとしたとき、その失敗が助けになる。
こうした失敗した先行投資は、一端、トリニトロンの開発ができ、13インチが完成し、キャズムを超えるとトルネード現象に乗ることを可能にしたのである。

ただ、大崎工場の従業員は、脱力感と不安感と不信感におそわれ、本社が開発したトリニトロンに対しても、不信感をもっていた。
しかし、吉田は、茅ケ崎の海辺の保養所にグループ単位で合宿を繰返し、トリニトロンの原理から説明し、造り方につて議論をしてもらうことを繰り返した。

また、組織をマトリックス型として、メンバーを2ボスとし、専門の本籍のボスの課長と、プロジェクト時の職務のボスの課長とした。課制を廃止しようとトライしたが、こちらは間もなく廃止した。
ボーナスは、その期の貢献度とし、昇給は長期な期待度とし、職位と職能の梯子を2本用意した。
また、人事部とは別に、天田をカウンセラーとして、研修担当として任命した。

そして、トリニトロンは、最初のKV-1310だけで、クロマトロンの開発投資を含め、カラーテレビへの全ての投資を、1年で全て回収した。


5) トリニトロンのサイズの大型化と広角化競争

開発部には、13型の開発の目途が着くと、すぐ18型の開発を急ぐ腹を固めた。
トリニトロンの登場の衝撃は、業界を震撼させた。

他社からは、盛田が心配したように、一斉に批判の火の手が挙がった。
トリニトロンは、大型ができないというキャンペーンも張られ、ソニーの営業部隊は、先の自信がまだ持てていなかったからである。

13インチでも難しかった水平偏向が次の18インチになると、もっと難しくなる。
和泉沢は、トランジスタに替わって、GCS:ゲート・コントロールド・スイッチを使うことを考え、厚木に提案した。

トランジスタは、ゲートに電流を入れれば、エミッタ―からコレクターにその何倍もの電流が流れてくれる。当初GCSは、ゲートにトリガ信号を入れれば、いきなり電流が流れ始め、信号を切っても流れ続ける。
ただ切ることができなかった。これが、また信号を入れれば切ることができるGTS:ゲート・ターンオフ・スイッチができた。

ベース電流は少しで良い、いきなり大電流が流れ、また切れるような半導体を作るには、どうすればよいか? トランジスタのPNPN構造で4層構造だったが、それにゲートを付ければ、それがSCRじゃなくて、ゲートで切れるデバイスになるのではないか、ということを厚木工場の松下が考えてくれた。

ただ、出力は出たが、放電で壊れた。毎日毎日100個づつ位壊れた。オンして流れ、オフして止まるべきところに、ブラウン管の放電でオンにしてしまう。とにかく瞬間の出来事である。
放電は何時起きるか分からない。ブラウン管の中には、いろいろな臓物が収まっている。そのゴミやバリが振動や等のちょっとしたきっけで放電を誘発する。それがトリガーとなって、オンにしっぱなしとなると熱が上り電流が流れ暴走が起こり、半導体が自らの熱でシリコンでも熔かしてしまう。
これを止めるための防護装置を組んで行った。1年掛かってできた。そして、18型のトリニトロンのKV-1813が開発できた。
これは、ベストセラーとなった。110度の広角で、画質も良かった。キャビのプラスチックの成形型を修理しながら60万台売った。

宣伝部や広報は、「目にも鮮やか広角114度」と提案したが、待ちに待った営業の足立部長は、いや反対にしよう。「114度、目にも鮮やか」にしようということになった。


6)信号変換からパワー変換へ、さらに電気から光変換へ

このGTSは、もう一つの画期的なイノベーションを起こした。スイッチング・レギュレータである。
それまで、家電製品の電源は、家庭用100ボルトをトランスで減圧してブラウン管や半導体を駆動する。そのデバイスは、トランスを使う。薄く圧延したケイ素鋼板を何拾枚もプレス加工し積上げそれを銅線で何百回も巻いて造る。まさに金属の鉄の塊で1~2Kグラムもある。

それが、重さは1/100以下の半導体となったのである。もちろん消費電力も大幅に削減できた。そして、信号処理しかできなかった半導体が、パワーコントロールができる時代の幕を開けることになった。

ただ、KV-1813は、下にスピーカを付けた縦型のデザインであった。ブラウン管の前面は、ガラスの肉も厚く、防爆処理も有るので重い。
逆に電源トランスが軽くなってキャビも薄くなったので、前に傾けると転倒しやすい。地震等で倒れると危険である。
仕方なく国鉄から中古のレールを分けてもらいそれをキャビの底に固定した。

とはいえ、これは、ホットシャーシと呼ばれ、クールシャーシのベータマックスと組み合わせる時に、ボトルネックを造ることになった。
しかし、クールなトリニトロンに技術陣は、これを、テレビ信号を光に変換し、厚木は、光信号と電気信号の変換を自由にできるフォトカップラーの開発に繋がったのである。それは、また赤外線によるリモコンの発展にも繋がって行ったのである。

この、トールボーイと呼ばれた縦型の18インチと16インチのKV-1813とKV-1613も凄い人気で、ブラウン管を飾るベズル金型は、30万台で寿命となるが、補修に補修を重ね、60万台以上を造り続けた。
日本の狭い部屋に良く似合ったのである。

そして、ソニーとしてコンソールタイプの1820を出すとこれが大ヒットとなった。14万5千円の価格でも、12月1カ月で3万台以上を売り上げたのである。
家具調のキャビの裏ぶたを外すと、その底板の上には、30センチ×40センチ位のメイン基盤が一枚あり、あとはブラウン管とその周りのサブアッセンブリブロックだけであった。
これは、売れに売れ、ソニーの金庫をキャッシュで満たしていった。

ただ、今度は、トリニトロンは、奥行きが長いというキャンペーンを張られた。他社から奥行が大きく、置く場所を取ってかさばると非難され、営業部門もからもお店の声が挙がってきた。

ブラウン管開発部隊は、その偏向角の拡大に挑戦した。
回路部隊は、偏向角を大きくして、奥行きを短くすることに成功した。
これには、半導体とその用法を開発する回路設計部隊のブレークスルーがあった。

最初は、90度偏向で、110度の競争となり、114度へ、さらに118度から120度までの広角化の泥沼競争となった。
20インチで、122度の試作品を造ったとき、テレビのキャビネット担当の北村次長は、鋸でいきなり木製のキャビを薄く半分にした。それを宣伝の写真に使った。