SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
SONY Myth, It's an innovation story of media

1章
ディスプレイ・メディアの用途と様式は共進化する
☆☆☆ その3 ☆☆☆


3◇ Made in Japanを生んだTV-7.75ドンキー計画

ソニーのプロダクツが最初から高品質、高信頼性であった訳では、全く無い。もちろん真空管に比べ、半導体は基本的には、劣化メカニズムを持たなかったので、真空管式テレビよりも圧倒的に信頼性は高かった。それで、一時、”ソニーのトランジスタは永久保証です”、と宣伝したこともあった。
しかし、それは”想定された正常の範囲内”でのことであった。

盛田は、”Made in JAPAN”の中で、つぎの様に書いている。
”戦前から、、、「日本製(メイド・イン・ジャパン)」のレッテルを付けた商品は、品質が悪いというイメージが定着していた。
・・・戦後、アメリカやヨーロッパを旅して見て、外国人は日本というと、唐傘、着物、おもちゃ、ちゃちな雑貨品などを思い浮かべることを知った。
・・・実の所、最初の内は、「Made in JAPAN」の文字をできるだけ小さくしようとした。その結果あまり小さくし過ぎて、アメリカの税関で書き直しを命じられたこともある。」と書いている。

これには、マイクロテレビの開発時に、井深の思想を受け継いだ岩間から加藤に引き継がれた、信頼性工学という技術思想の系譜を語る必要がある。
このコンスーマ製品に対する高信頼性を具現化するための、あるプロジェクトによって、実現できた結果を踏まえ、盛田の得意としたマーケティング・イノベ―ションが実現できたのである。

ラジオと異なり、テレビには、半導体でないブラウン管という異質な真空管が存在した。また、工場内や家庭内だけの安定した環境内だけでもない。
当時、品質管理では、工場を出るまでの出荷品質の保証という品質保証という技術概念が提唱されていたに過ぎない。
しかし、井深と岩間と吉田と加藤は、信頼性保証という品質に時間軸をいれた技術概念をしっかり捉えていた。
その根幹には、「品質保証が、その製品の製造工程を管理すること」で、達成できると考えたのに対し、「信頼性保証は、設計過程そのものを管理すべきである」としたフィロソフィーがあったのである。
それは、アメリカのミサイルや大型コンピュータや大型電話交換機等の大型システムの"Quality Contorol & Reliabiritey Management"のシンポジュームの論文集に注目していたソニーの技術のトップの一致した考え方であった。

GHQの講習会を契機に出発した通産省による「日本科学技術連盟」は、品質保証のパラダイムから抜け出せず、正規分布論に基ずく統計的品質管理や後のデミング賞を推奨していた。
しかし、ソニーでは、日本科学技術連盟の講習会への参加は、開発部長だった吉田は、許可しなかった。ただ、講師として参加するなら良しとした。
また、トリニトロンの後、町田弘正が大崎からソニー本社のQAセンターの就任してまもなく、北欧に出張中の盛田から、電話があった。
「こちらでは、日本のデミング賞というのが有名となっているが、ソニーは獲っているか?」という。当時、ちょうど大崎からデザインレビューの担当者が本社の町田の所に遊びにきて居合わせ、町田が目顔で「どうする?」と尋ねた。彼は、「そんな、今さら、ハシタナイ!」と小声で答えた。

ソニーは、すでに、井深が率先して開発したF-CAPシステムの3本柱であるデザインレビューを中心としたプロスペクティングシステムを完成させていたのであった。
ただ、そこに行き着くまでには、いくつもの失敗があった。
その例が、9インチの非正常状態によって出現した、耐衝撃性問題であり、放電による半導体の破壊問題であった。
そして、マイクロテレビでも、9インチマイクロTVと7.5インチによるMade in JAPANへの挑戦があったのである。

ブラウン管のインチサイズが大きくなると、放電によってトランジスタが、バタバタと壊れるようになった。
まず、ビデオの出力段のトランジスタが壊れた。ビデオの出力段のトランジスタは、ビデオ信号を増幅して、そのカソードから引き出される量をコントロールする最も放電を受ける回路である。

岩間は、続く7.75インチで、「高信頼性を保証する設計の技術標準」を確立するためのプロジェクトを発足させた。それが、コードネームを「ドンキー計画」と呼ばれた大きな挑戦であった。

それまで、ソニーはトランジスタの永久保証を打ち出していたが、9インチからブラウン管の放電等の異常現象による半導体の破損が目立つようになっていたからでもある。
いわば、QCが工場を出るまでの品質保証であるとすれば、信頼性は、顧客が利用する全期間に渡る品質保証であった。
それは、シュウハートが考えた工程における4M'sの標準だけでなく、設計活動から、顧客の利用環境における全ての変動要因のデータを採る必要を明らかにしたのである。

そして、開発段階から、試作品を提供してもらい設計者と共に、信頼性の技術者と一緒に、一連の試験計画のもと、デザインレビューを行う手順を定めその結果を関係者が共有し資料にまとめる手順を設計したのである。
その成果は、「ソニー信頼性設計標準書」としてまとめられ、岩間によってそれは、社外秘のトップ・シークレットとされた。

それこそが、「ソニーの高品質・高信性」のイメージに大きく貢献したのである。そしてこの標準がやがて”Made in JAPN”のイメージを高めることに貢献していった。

アメリカは、国際収支の赤字に苦しんで、商務省はバイアメリカン政策を米国民に勧め、関税を引き上げ産地表示の基準を厳しくしていった。

当初、5インチでは、機銘板には「Japan」だけの記載であったが、アメリカは、「Mede in Japan」の表記を要求した。
盛田はその記銘版を目立たないよう小さくするよう求めていた。しかし、このドンキー計画によるデザイン・レビューこそが決定的なゲームチェンジャとなったのである。
ソニーが、高品質・高信頼性のブランドイメージを高めると、それが日本製品のイメージ向上に繫がっていったように思われる。
これには加藤の下。今井次郎が活躍した。

そして、井深が開発の総指揮を執った、世界初のトリニトロンカラーテレビの開発プロジェクトで、そのマネジメント技術として命名した、F-CAPs:Flexible Contoroll and Planning, Programming, Prospecting System の最後のProspectingが設計段階で信頼性を保証するデザイン・レビューの標準として組み込まれたのである。
これは、言わばプロジェクトのPlanningと双対を成す活動で、Programmingを通じてプロジェクトが終了した後にまで続く成果の評価作業めで含むのであるが、その根幹は、デザイン・レビューである。

この技術もあって、トリニトロン・カラーテレビが開発できたと言ってよい。つまり、井深がイノベ―ション型マネジメント論として開発しようとしていたF-CAPsのプランニングとプログラミングと並んでプロスペクティングという3本目は、ここで既に準備されていたのである。

ソニー製品の初期(月間)故障率は、他社の1/15と大きく低減できることになって、「Made in JAPAN」もSONYと同じくらいに大きく表示するようになった。


3.1 白黒の12インチと半導体とのマッチング・デザイン

12インチテレビでは、2SC41を2石使っても、水平にドライブするのがやっとだった。
しかし、それを超えると遂に、社会に通じる新しい均衡点へと,
キャタストロフィックにジャンプする時が来た。
マイクロテレビの12インチの商品開発が成功したTV-120である。
そのトランジスタの型名は、2SC291、種類は、二重拡散型エピタキシアル・プレーナ型 トランジスタ、1962年5月試作開始、1964年10月のTV120の後半には使われた。

ソニーは、TV120で、パーソナルプロダクツから、ホームユースへの手掛りを掴み、また半導体も、それに応える形で、大きく進化を遂げた。
これは売れに売れた。ボーナスは春秋共に4ヶ月以上で、年明けにまた1ケ月となった。

トランジスタがテレビ用となり、そのサイズが大きくなると、高圧も上がり、電子銃の口径も大きくなり、偏向用のコイルに流す高周波の電流も大きくなる。
回路の設計仕様も進化していた。従来の定格は、半導体の米軍のMIL規格表に基づいていた。その負荷のデューテイ・モードは、電流と電圧だけであったが、これはいわば抵抗やコンデンサやコイル等の受動機能デバイスから来ている単純な耐ストレス規格である。

トランジスタのフィギャー・オブ・メリットも、Hfeという周波数の増幅特性が重要になり、電流電圧の定格だけでなく、ASO: Area of Safe Operation という概念が必要になった。
どの辺の特性、例えば何ボルト、何アンペアぐらいの場所に、何ミリセカンドぐらい動作状態に置くと、そのトランジスタが壊れるかというのがわかる安全に動作できる限界負荷領域という概念である。

拡散を全部上からやる三重拡散とか、メサ型の次のプレーナという技術が出てきて、2SC807というというパワーの大きなトランジスタの最終版とでも言うべきものが開発された。
これは、メサ型トランジスタが台形状をしているのに対して平坦な (planar) 構造をしている。酸化膜を選択拡散のマスクとして用い,半導体ウエハの片面から適当な不純物を必要な部分にだけ拡散させてベースとエミッタをつくったトランジスタで、画期的なプロセスの発明であった。
さらに改良を加えてコレクタの直列抵抗を低くしたのがエピタキシャル・プレーナ型トランジスタや三重拡散プレーナ型トランジスタであり,前者は現在でも,プレーナ型トランジスタの標準的構造となっている。

このコレクターの直列抵抗を小さくするという考え方は、川名の中グリ方式と同じで、また酸化膜を選択拡散させペリフェリ部を長くし周囲をぐるりと囲むガードバンド方式で性能を上げる方式も川名の発明を踏襲したものであった。
耐圧で言えば、2SC41だと100ボルト行かなかったが、ところが2SC807だと1000ボルトと一挙に10近くまで高まったのである。

さらに、これを改善して75シリーズというのができた。これはパターンもちょっと違ったが、エピタキシの抵抗をさらに下げた。したがって電流能力が増大、電流がたくさんとれるようになり、その後も次々とモデルチェンジが成され、さらにもっと電流がとれるようなモデルに進化して行った。

そして、白黒でも19インチまで水平偏向が振れるようになった。そしてそれが、トリニトロンの13インチでも地力を発揮したのである。

このトランジスタは、ソニーは、これをコアにして高級オーデオをも立ち上げていった。
また、外販も行われるようになり、ライセンスの導入では遅れをとったが、他社よりも優れたエピタキシの技術とアプリプロジェクトに恵まれ、良い評判をかち得て、発展を遂げることができた。

半導体は、いろいろなステップを踏みながらだんだん応用範囲を拡大して、大電流や、高周波数に対応し、大量生産できるものができて行った。
この技術は”スジがいい“と、井深は言っていたが、その用途の発展を指していた。それにはトランジスタを発明してノーベル賞をもらったバーディーンも、半導体がそんなふうにまで発展するとはとても思っていなかったであろう。
バーディーンがソニーを訪れた時、井深が「感謝する」と言ったら、逆にバーディーンから「それはこちらの言うことです」と言われたという。

あの頃、トランジスタ・ラジオを始めたいと言って、基本特許だけのライセンスを取ったとき、それは無理と言って笑われたのを、井深がその用途にマッチングさせ、トランジスタを本物にしたということを、バーディーンは特に評価されたように思う、と川名は言う。


1) ターゲットドリブン型のイノベーションが違いを生んだ

TV120型への2SC41の2石使いから、三重拡散メサ型の次のプレーナという技術による2SC807への共進化は、井深や岩間が口にした”無限の可能性”の一端を示すものであった。

ターゲトであるプロダクツが、その要求仕様を高く求めることで、半導体は、その能力を大きくして行く。半導体がその能力を大きくすることで、プロダクツがまた進化する。

こうした、いわば進化のパターンの自己成長するための領域を決めるバウンダリーエリアが広くなり、そこで成果を上げることで、さらに、一種のカタストロフィックな、均衡の破れが起きる状態となるように思われる。
これが、リニアーモデルでなく、ターゲットドリブンの本質であった。

トランジスタは、抵抗器やコンデンサやコイル等と違って、自らが持つ電圧や周波数等の信号を変化させる機能を持っており、アクティブな能動素子と呼ばれる.これに対し、抵抗器やコンデンサやコイルは、受け身の受動素子と呼ばれる.

半導体の進化は、当初は、計器と顕微鏡を見ながら、手探りでピンを立てる箇所を探索しながら組み立てるいわば専門の外科医しかできない構造であった.
これをゲルマをるつぼで熔かし純粋の単結晶体の棒として引き揚げ、その途中、頃を見計らってパット、気合を入れて不純物のリンを投げ込んで、信号を制御するゲート層を造ることで、大量生産が可能なデバイス構造とその製造プロセスを開発したことが、ICTの時代の扉を開けることになったのである。

映像が進化して、カラーとなり、画角と解像とが大きくなり、静止画像にトリニトロンの用途が進化するにつれ、半導体がカバーすべき電圧や、電流や、周波数領域従って処理時間への要求も拡大し高くなって行った.
逆に言えば、それに半導体技術は次々に応えることで、新たな用途が見えてきて、また半導体のそうした用途での用法のブレークスルーが起きて行ったのである。

シリコン・ウエハーは、新しいデバイス構造と製造プロセスに対する構成法のブレークスルーをもたらした.
すでに述べたように、信号の増幅度を上げる技術は、トランジスタの裏側を削ってコレクタ側の内部抵抗を小さくすることによってブレークスルーがあったが、これをシリコン・ウエハーの上部面からエッチングしたり、酸化させたりするその余分な箇所をマスキングして気体でエッチングするメサ型で大きなブレークスルーがあった。

また、さらに上部構造に別の層を降り積もらせて形成する、エピタキシャル・プレーナの多層構造に発展させるデバイス構造とプロセスの開発大きなイノベ―ションに繋がって行ったのである.
さらに現在でも広く使われている耐圧を上げるためのガードリング法やはみ出し電極法、塩化燐による気体拡散法などのいくつかの技術的ブレークスルーがあり、こうしてエピタキシャル・プレーナ型のシリコン・トランジスタの実用化開発ができたのである。

そして、シリコンの半導体の生産は、8インチのテレビが始まるころに、ようやく日本のシリコンの生産が始まるが、その約2年後の5インチのテレビができた1962年に、いきなり10倍になり、年間100万個ぐらいに生産がふえて、次の63年に9インチのテレビの頃は4倍の400万個になって、次の64年に12インチが出てこれで800万個になっている。
そしてその次に、また桁が違ってきて、いきなりオーディオとかマイク、19インチのモノクロがテレビが出る頃になると2500万個、そして翌年の66年には1000万台に近づいている。
こうしてソニーは、日本と共に、世界の半導体産業をリードしてきたのある。

そして、その後ソニーがバイポーラのICでも業界のリーダとなり、トリニトロンや、世界初の家庭用のビデオカセットレコーダ、ベータマックスを生みだす基礎となっていったのである。

また、オーディオのビジネスを、“ホーム・オーデオ”の高級音響と並んで、ラジオやウオークマンなどの“モバイル・オーデオ”と、そしてそれらをビジネス的には凌駕する“パーソナル・オーデオ”を3つの柱としてを立ち上げていった。

パーソナル・オーデオは、出井伸之(いでい のぶゆき)や諏訪寿志(すわ ひさし)などによる、半導体に加え、その応用でもあるCDという新たなキーコンポーネントの組み合わせ製品の開発の成果でもあった。

さらに、プレーナの実用化開発で発明された拡散技術はあらゆるところに使われ、最近ではCCDの立ち上げにまでも使われたのである。ただ、残念ながら、その間、ソバックスというアプリケーションを失ったワンチップMOS-LSIは、後一息のところで、プロジェクトの中止の涙を呑み、その後、他社の後塵を拝する道を歩むことになった。

しかし、最近はだんだんイオン・インプランテーションのハイドーズ・インプラとなり、エミッタとかソースドレインまで、みんなインプラでやるようになってきた。
しかも最近では燐ではなくて砒素を使うようなことが多くなってきたので、この拡散技術そのものをMOSトランジスタの主プロセスに使うということはなくなったが、現在でもパワーデバイスではこれを使っている。
この技術は、結晶中の不純物を吸い寄せるゲッタリング工程にも使った。
これも非常に効果があり、そのために大問題だったCCDの初期の歩どまりが画期的に上がるようになり、実用化するのにも貢献できた。
しかし、CCDのプロジェクトに掛けた思いのみが、その細い糸をつないで、その後コンピューティングロジックと相性が良いC=MOSと2階建て構造にすることで、大っきく飛躍することになたった。

しかし、ラジオの音声用のゲルマから、テレビの映像用のシリコンの時代に進化しても、これをダイヤモンドの回転歯で輪切りにしたウエハーという構造は、代わっていない.
現に、バイデン大統領は、30センチのシリコン・ウエハーを翳して写真に納まり、アメリカは技術覇権で中国に挑戦状を突きつけている.
このシリコン・ウエハーやそれを切り出したり磨く製造装置のシェアーは、まだかろうじて日本の手中にあるのだが.それらを使って、回路をデザインし、製造し、製品化する技術は、大きく後れをとっている。


2) マイクロテレビの先の先を観ていた井深

ソニーは、世界初の電子式卓上計算機をソバックスと称して発表していた。しかし、ほぼ同時進行していたシャープも、ソニー同様その信頼性には、手を焼いていた。

ソニーは、半導体と抵抗等を一体にプラスチックで包んだ赤モジュールのハイブリッドのICを使っていて、まだ他社よりもましだったが、それは惨憺たる信頼性であった。
ソニーのソバックスの生産ラインは、ラインの頭に投入する台数のストレート通過率が、20~30%位で、ラインの上流と下流の見極めが着かない位であったが、シャープのラインも同様であったようである。

テレビやソバックスの回路屋達と半導体屋は、すでにこのとき、ワンチップ・シリコン回路開発を目指していた。歴史にもしは無い。ただ、もしこのとき、もし、が許されたなら、全く異なったソニーがあったかも知れない。

ただ、晩年の井深とは違い、その頃の井深は、コンピュータに全く関心を持っておらず、カラーテレビの開発に全勢力を集中させて行った。
一方、岩間や川名等が、究極の半導体の技術である、エピタキシャル・プレーナのコア用途としてのデジタル化のコンピュータ分野に関心を注いでいたが、その頃になると井深は、もうマイクロテレビからカラーテレビに関心を集中させていた。

ただソニーでは、オーデオから始まったソニーのビジネスドメインをビジュアルに拡大するためのキープロジェクトが始動し始めていた。
それは、ソニーがキーデバイスとして半導体と共に磁気記録という2つのキーデバイスに、ブラウン管というもう一つのキーデバイスを追加して、3頭立ての馬車とすることを狙っていた。

井深は、ソニーの次世代の経営者達のために、発祥のドメインであったオーデオ記録再生ドメインから、オーデオビジュアルの総合記録再生ドメインへのビジョンとロードマップを描いていたのである。

カラーテレビプロジェクトへの資源の集中は、そうしたソニーの経営資産を集約した成果を家庭用ビデオ記録機器のプロジェクトにつなぐために絶対に欠かせない戦略的必須条件であった。

カラーテレビは、電子ビームが3本必要で電子銃が太くなり、高圧も高くなり、偏向パワーも大きくなる。そして何より、ブラウン管の中身は、白黒のパーツが10個位なのに比べ、数十個もあって、放電が良く起こった。

カラーテレビプロジェクトのスタートは、オリンピックを控え、市場が爆発的に発展する目前であった。一刻の猶予もなかった。
ソニーは、クロマトロンは未だその構造と製法に多くの問題を抱えていたが、希望に満ちていた。

3.2 トリニトロンというコア・デバイスのマッチング


1) 最初のカラーテレビの失敗

井深は、”明るい夕食を家族が囲んで観られる明るいテレビ”を開発するという目標を掲げていた。

1961年3月、ニューヨークのIREショー(全米ラジオ電子ショー)で、ソニーの半導体VTRの試作品の出展していた木原信敏は、眼にも鮮やかで明るいカラーTVに目をとめた。それは、カルフォルニア・バークレー校のノーベル物理学賞のアーネスト・ローレンスと東大の実験物理学の教授だった嵯峨根遼吉によって開発されていたクロマトロンであった。

二人は、日曜日になると、アルバイトと称して、いそいそと連れ立って、出かけたと嵯峨根夫人は語っている。
嵯峨根の開発していた東大のサイクロトロンは、原爆の開発を目的にしていたとの嫌疑を掛けられ、東京湾に沈められた。それはペリー長官が、マッカーサ司令長官をアメリカに呼び戻す口実を与える事件となった。
いわゆる憲法と自衛隊を巡るGHQの内紛の勃発と、それと照合する形で、日本側では、昭和電工疑惑を巡る政党間の紛争が起こり、戦後の暗闇の中で政治体制の転換に繋がって行ったが、最近これらの情報の公開が少しだけ始まっている。

因みに長崎に原爆を落したとき、日本国民に次ぐというビラがまかれたが、その宛先には、”親愛なる我らが友嵯峨根遼吉”とあって、”君ならばアメリカこうした原爆を大量生産できていることを、政府に伝えることができよう”とあった。
そして、3日後に終戦を迎えたが、日を置かず、嵯峨根遼吉は、軍用機で、スタンフォードのバークレイに招聘されていたのである。そして、2人の子供不含む家族も貨物船でアメリカに渡った。
因みに、息子の嵯峨根勝郎は、ソニーに入社し、ベータマックスの回路CADで、デジタルシミュレータを開発し、ファインパターンのIC回路設計の回路集約させ、世界初のIC化VCRレコーダ、ベータマックスの発売開始の成功に貢献している。

ソニーは、クロマトロン技術のライセンスを受けて、量産できる構造とその製造プロセスの開発に挑戦した。
しかし、ソニーの新製品開発の例にもれず、最初は失敗に終わった。
それは、テープレコーダでも、トランジスタ・ラジオでも、マイクロテレビでも例外はない。VTRやデジタルカメラでは、数えられないほどの失敗の連続であった。

ただ、ソニーがそれを乗り越えたのが、トリニトロンであった。そして、井深が後に振返って、自分にとって一番真剣に取り組まざるを得なかったプロジェクトである、と述懐している。それは、実質的な初代のソニーの社長としての井深大の孤独な闘いでもあった。


2) クロマトロンで失敗するという通過儀礼

カラーテレビの開発には、クロマトロンという失敗という通過儀礼が必要であった。

クロマトロンは、電子管開発部の部長となった吉田がクロマトロン管の開発を担当したが、生煮えのまま、大崎工場を立ち上げ、日本で最も進んだ技術を持っていたNHK技研から招いた山田が製造部長となって、本社の開発部から引き取って行った。

そして、クロマトロンの開発を担当し電子管開発部の部長とはなったが、吉田進は正直、力を落としていた。
ただ、この方式は、実用化するにはいろいろ問題が山積していた。それよりまず、製造すら大変であった。

同じ苦労は、ソビエト連邦も味わっていた。まず、ガラスの前面パネルの成形精度を上げるためのには、1300度のガラス熔解炉と成型プロセス全体の温度を+-4度以内に制御する必要があり、そのためには、30億円の追加投資が必要であることが、電子管開発部の技術評価グループと、茜部資躬(あかなべ すけつね)が専務をしていたソニー柴田の工場実験から導かれた。
そこには井下係長以下7名の優秀なメンバーがいて、不可能と思われた条件を命がけで実験を成功させた田口の直交表による実験計画の結果であった。

また、蛍光面をRGBの3色を成形するためには、電子ビームを使った電子観光印刷工程が必要で、そのためには、3回の真空状態をポンプで造る必要があり、シャドウマスクの、光による露光に比べると60倍以上の作業時間が必用であった。
そこでクロマトロンを3電子銃方式とし、擬似的なグリッドマスクを造って光感光方式を検討したが、完成させる所まで行き着くことができかなった。

また、色選別機能は、20,000ボルト以上の高圧スイッチングをするために、マイラで絶縁する必要があったが、これがぱらぱらと崩れて、放電の原因となった。
この回路のスイッチングが放出する電波は、ラジオに飛び込んで、近くでラジオを聴くことができなかった。
つまり、製造するににも暮らしの中で使うにも、難しかったのである。やはり、ベンチャーが挑むには、スジが良く無かった。

技術担当専務の岩間は、吉田を呼んで、「井深さんの夢は尊重したいが、電子管開発部として今年末までに、目途を付けられなかったら、ソニーが単独で開発することは断念する」、と告げた。それは、1966年秋であった。



3) トリニトロンという電子銃の発明から始まった

吉田は、GEが発表したポルタカラーの方式が何かひっかかっていた。それは、シャドウマスクながら、電子銃が水平にRGBの3本を主平にインライン型に並べていた。

通常のシャドウマスクでは、3本の電子銃を俵を積んだように3角形に配置している。しかし、水平なら3本のビームを1点に調整するセットの組立て作業は各段に楽になる。
ただ、電子管のネック径に対し、水平の3本の電子銃では電子レンズの口径が1/3になってビームのフォーカスが悪くなる。井深の望んでいる”明るい”というテレビにするとピンボケになってしまう。そのジレンマを打ち破ることは可能だろうか?

追い詰められた吉田の素人流の発想が閃いた。ネックの真ん中の太い電子レンズを一つ置く、その中央に3本のビームを水平に並べるのだがそこで交わって通過させたらどうだろうか?
大越と宮岡を部長室に読んで、アイデアを説明した。大越は、目を上げて「クックと笑いと漏らし結構かと思います」と言った。
電子銃の専門家で心配性の宮岡は、「レンズの中で交わったビームがマイナス同士でぶつかって錯乱する可能性が気になります」と述べた。

翌朝、宮岡は、自分の持っていた試作実験室で、2本だけのビームが走って電子レンズで交わる電子銃を組み立て、白黒の7.75インチのブラウン管に組み込んで、光らせた。
2本のビームの輝線がくっきりと、画面を横に走った。
直ぐに社長の井深も呼んだ。
吉田と大越と宮岡や加藤や井上、中山、町田、住吉等の主だった係長達が立会い、成功をかみしめた。

井深以下、「これで良い、これはスジが良い」と認めた。
こでなら、蛍光面を電子露光でなく、通常の写真現像工程でも可能となる。
クロマトロンの開発の過程で得た全員のテクノロジー・イマジネーションの、いわば体験的集合知が発揮するメカニズムの所見であった。
井深は、すぐ新しいプロジェクトを興し、自分がプロジェクトマネージャとなると宣言した。
後にトリニトロン電子銃と呼ばれる画期的な電子銃の発明の瞬間だった。


4) デシジョン・ツリー・チャートの誕生

直ちに、吉田の部屋に、大越と宮岡と加藤が集まった。
まず、3本の電子銃を細いガラスネックに横に並べ、そこから主レンズでビームが交わるようにビームを打ち出し、そこで交わった後、蛍光面の少し手前の色選別機構の所でまた、交わるように集め直す仕組みが要る。

宮岡は、「これはかなり複雑な構造になってしまう。果たしてこのような電子銃は組立てできるでしょうか?」、と専門技術者らしい疑問をもらした。
大越は、レポート用紙に、3種類の構造を構想して、すらすらと書きあげた。

加藤は、それを黒板に並べて書きとめ、その利点や懸念となる点を整理した。そして、その3案を成功させるために必要な検討項目を次々リストアップし、懸念点と判断すべき条件を議論しつつ、デシジョン・ポイントを入れて行った。
これこそ、後に井深が戦略立案フェーズでの主要なツールとなる「デシジョン・ツリー・チャート」の誕生の瞬間であった。
1)サクセス・ストーリを作成する。
2)クリティカルとなるプロセスでは、代替案を複数用意する。
3)その先に進むかそのパスを止めるかのデシジョン・ポイントをイベントとして予め決める。
4)最も早く、上手く成功するための理想的なプランを考えることと、最大のリスクを回避する、マックスゲインのマックス化とマックス・リスクのミニマム化戦略である。


5) クロマトロンのリファレンスがAGという大きな発明に

早速、この新電子銃をシャドーマスクと組み合わせたプロトタイプを試作した。
しかし、画質は、ピンとこなかった。何台もの試作を重ねたが、画質は納得できるレベルには達しなかった。
画質の明るさだけでなく、新鮮でスッキリしたいわば鮮明度が無い。
結局、失敗したクロマトロンの画質が、リファレンスになっていたのである。

しかし、そこからが1年半に及ぶ死の砂漠の谷をはい回るようなプロセスを辿ることになった。
まず、色選別機構に関する数種類の模索が始まった。
第一開発部3課の島田課長は、電気回路開発を担当していたが、無数のアイデアが次から次に湧き上がるアイデアマンであった。
彼は、ブラウン管外部から上限にコイルを着けて、クロマトロンのように色をスイッチする方式など、数種類が試された。
そのため、1課のブラウン管開発部隊の担当者は、その実験用の試作に追われた。しかし、1課長の大越は、島田がアイデアを密かに相談される度に、楽しそうにククッと忍び笑いをしながら議論を愉しんでいた。

ある日、京都の大日本スクリーン社から開発部長が大越の所に尋ねてきた。そして、薄い鉄板をストライプ状にエッチングし、そのスリットから電子ビームを通過させてRGBを選別するというアイデアだった。

大越は、すぐにそのコア技術の持つ広がり、パースペクティブのイメージを掴んだ。
それは、後にAG:アパーチャーグリルと命名されるトリニトロンの本質的なコア技術の誕生につながる瞬間だった。
AGは、薄い程良いが1ミクロンの鉄板で良い、それなら300本のリボンを上下に強く引っ張るフレームを着磁しないステンレスで造れば、電子軌道を歪めないでできる。
そうなると、ガラスの前面パネルは、クロマトロンと同様なシリンドリカルな形状となる。
そして何よりも苦しんだ蛍光面の作製工程は、通常の光による感光現像プロセスで行ける。


6) トリニトロンをターゲットを13型に設定する

大越は、トランジスタの能力から、出来るだけ小さいサイズにしたかったが、TV-120の成功体験があった。そしてそこでは、白黒でスクリーンは高圧ではあったが、放電対策に半導体や回路Gp.が苦労していたことを知っていた。
また、電子銃から蛍光面までの距離が長くなるほど、ビームは相互反発してボケてしまう。それを避けるためには、高圧を上げなくてはならない。また、ネック液を大きくして、電子銃のレンズ口径を大きくしなくてはならない。そうすると、今度はビームを水平に偏向するため半導体に対する要求が厳しくなる。

最大ゲインを最大化を狙いつつ、こうした各リスク要因の最大要因を最小化するのは、13インチであるとイメージした。まさに天才的構想力であったと言える。

そしてターゲトを13インチにすると、必要な諸元が決まった。
こうすると、大日本スクリーンにお願いするAGの諸元は、大越の頭の中から、すらすらとソニーのロゴ入りのレポート用紙に、ポンチ絵として表現されて行った。

素材は鉄板、暑さ1ミクロン、長さ30センチ、340本のスリット、上下にはフレームの熔着する部分を残す、前面から2/3の深さでエッチングし、背面から1/3の深さでエッチングして、サイドからの電子ビームがスムースに通過できる構造とする、等などであった。

アパチャーグリルの概念に到達したのだ。これが、その後半世紀にわたって成長し続けることになるトリニトロンのコア・テクノロジーとなり、ソニーを世界の企業へと発展させる大発明となったのである。

これは、薄い金属板に、写真化学的に細い縦孔をたくさん並べて開けたもので、それを金属枠にピンと張り付けた構造を持ち、電子ビームの透過率は20%。シャドーマスクの15%に比べて33%以上も明るい。
しかも、すだれ状の構造がクロマトロンにも似ている技術の誕生であった。

井深は、再びよみがえった。そして、反対していた岩間も、マイクロテレビの回路セット担当だった沖栄治郎(おき えいじろお)Gp.を井深のプロジェクトに動員することを決めた。
回路設計の沖は、ソニーが始めて半導体を開発したとき、その用途の検討段階からその応用開発にただ一人取り組んだ経歴を持っていた。テープレコーダの始めてトランジスタ化にも一人で取り組んだり、1958年の正月、最初の8インチのテレビの開発命令を井深から直接受けた一人でもあった。

やがて、マイクロテレビでは、和泉沢政人(いずみさわ まさと)等が半導体Gp.に来て、テレビ側の要求仕様を明確にし、ブラウン管の放電破壊対策を練り、親プロジェクトとも同期をとって、進行していった。
また、カラーテレビでは、沖の所からは、ブラウン管の開発Gp.の大越明男(おおこし あきお)の所にも、沖Gp.から鈴木忠彦(すずき ただひこ)が窓口となって、開発全体の同期が取られた。
こうして、半導体とブラウン管の2つのキーデバイスと、トリニトロンの回路開発との、同期がしっかり取られていったのである。