1編

SONY 神話、あるイノベ―ションの物語
 SONY Myth, It's an innovation story of media


1章
ディスプレイ・メディアの用途と様式は共進化する
☆☆☆ その1 ☆☆☆

はじめに

ここでは、”SONY 神話、あるイノベ―ションの物語”として、メディアの進化論とも言うべき、ある企業、つまりSONYのケースを取り上げたい。

メディアは、ヒトの心身の拡張欲求の現れとしての、道具のことで、そのメディアの向かう本質は、ヒトの心が要求する情況変更ニーズを満たす道具の働き、つまりサービスコンテンツが担う、そのメッセージそのものであるとしても良いように思われる。

企業の本質は、そのビジネスドメインである。多くの企業は、メディアの提供か、そのサービスコンテンツを提供する所に、身を置いていると言えるだろう。

また、メデイアは、その技術の進展と共に、その用途を進化させ、用法と進化させ、新しい様式を社会に形成する。そして、新しいメディアのサービスコンテンツは、その古くなるメディアである。つまり、メディアは、自己増幅する機能、つまり自己触媒の機能を持っている。そしてメッセージと共に、共進化する様相を発現する。

SONYは、ある典型的な、メディアカンパニーであったと言えるであろう。
ここでは、まず、ソニーの実質的初代の社長の井深大、同じく2代目の盛田昭夫、そして3代目の岩間和夫が、それぞれ、心血を注いで挑戦したイノベーションの3つのケースを採り上げる。

それは、”トリニトロン”と、”ベータマックス”と、”3.5インチMFD”を中心に、その周辺の技術や文化やビジネスが、いわば自己組織化するように共進化したストーリである。

 イノベーションは、技術の進化の本質の現れである。それは、人びとの生活に関わるいわゆる、サーキュラー・エコノミーという自然の流れに沿った現象であるとも言えよう。
つまり人びとが働いて貯めた物質やエネルギー等の資源や労働の不確実性を軽減する技術という知識の持つ自然な流れとしての変化、つまりこれをこそ技術の進化と呼ぶべきかもしれないが。

トリニトロンは、映像を受信して人びとに再生するメディアである。その進化は、居間のような明るい場所でも見られる自由度を確保し、さらに家族全員だけでなく、個人が好きなチャンネルを選べるように、価格も、消費電力も、信頼性も高くすることで、家庭財であったカラーテレビを、パーソナルユースという新しい用途を開発した。

ベータというVCR:ビデオカセットレコーダは、受信した映像を蓄え、好きな時に再生できるメディアでありタイムシフトという機能で、家族全体ではなく、人びとが自分の好みに合わせて好きな映像のコンテンツを選択できる自由度を獲得した。
そして、それまで放送局というセンターが独占していた機能を次第に家庭そして個人でも可能とする用途に広げて行った。

3.5インチMFDは、ヒトの話し言葉を書き言葉に変換する手段としての個人が、言葉をディクテートするレコードとタイプライタの言語メディアから進化させ、パソコンの記録再生メディアとして進化した。
それによって、テキストや数字も表現し、記録し、再生し、編集し、配布するため、人びとが多様なメディアタイプを自由に使うための用途を開発した。

こうした映像のパッシブな選択から、映像のアクティブな選択から編集へ、そして言葉のメディアとして記録、再生、編集、配布機能をもつ各種のメディアが、相互作用を起こしながら、社会や多様な文化ともがきながら、共進化をとげてきた。

それらは、コアとなる技術と、それらの用途や用法を実現するための周辺技術と共に、その使われ方としての様式を確立するべく共に進化してきた。それらは、社会環境に対しても反映させ、新しいメディア価値観を造ってきた。


例えば、映像の受像器としてのテレビの進化には、ブラウン管とそれを駆動する半導体というコア技術があった。
また映像のコンテンツの選択と編集とそれによるコミュニケーションのVCRメディアの進化には、磁気記録と半導体というコア技術があった。
また、言葉や文字や数字のコンテンツの記録、編集、加工、通信というフロッピーディスクに見るデジタルメディアの進化には、磁気記録と半導体に加えて、データ構造と処理ソフトというコア技術がその進化を加速した。
そして、各メディアは、それらの扱うコンテンツとサービス自身をも進化させてきたが、さらに国や民族を超え、社会のルールまで変化を促してきた。

イノベ―ションとは、一人の力でできるものではない。何人かの力が必要であり、そうであれば、そこにマネジメントが必要となる。
しかし、イノベ―ションは、単なる繰り返し作業ではなく、自律的なしかし、統合され、分担するクリエイティブな活動である。
つまり、本来、イノベ―ションと組織とは、矛盾する概念である。
そこで、必要となるのは、複数のプロジェクトの参加者が、共通するただ一つの達成目標である。

マネジメントもまたそこでは、調整という専門の位置分野を担うことが要求される。
そして、各参加者は、その目標に向かって、誇りと責任を持つ活動が求められる。そして、そうした各分野での責務は、マネジメントも、各専門分野の担当も、その達成目標の前では、平等である。

かくして、その目標達成という御墨付きの前では、何人といえども、助けるならともかく、横から口を挟んだり、まして命令すること等は許されない。
マネジメントは、サーバント・リーダシップが求められるのである。

そのため、各分担者は、目的とする対象に向かって、自己参入することで、マネジメントと同列となる。
こうした例は、この3つのケースでいくつも見ることができよう。
つまり、相互自己参入する専門家達が、なぜ、それぞれの前に立ちはだかる壁や峠をブレークスルーしていったかである。

確かに、SONYが手掛けたプロダクツやサービスは、その開発者自身が自らが手にしたいと望んだものであった。そして、それを手にしたときのイメージを、それぞれが自らに語り、自らを励ますことまでできるという誠にハッピーで幸運なビジネスドメインに身を置くことができたと言えよう。

しかし、世に言われるように、何か、ポツンと良いアイデアがでれば、イノベ―ションが起こるセレンデピティのようなものではない。
井深は、それを1対10対100の努力と表現していた。また、実質的な5代の社長であった出井伸之は、それを、カンパニー、コイン、キャッシュ、クレッジット、そしてキャピタルと表現している。

ただ、そうしたイノベーションは、常に生まれ育ち、そしてその系譜を終わる生き物と同じ宿命を帯びている。
その時、神話の崩壊がおとづれる。そして、その死屍累々の峠を越えて、幸運にも、時がおとづれる場合もある。

もし、企業にも4季があるとすれば、井深は春、盛田は夏、そして岩間は実りの秋ではなかったか?
あとに続く冬の季節を、大賀と出井が辿った旅までは、ここではあまり詳細には触れないが、少しだけ、何とか生き延びつつあるところまで覗いてみたい。

そして、こうした一連のディスラプティブなイノベ―ション活動では、いつも既得権益を守る組織やそこで生活する人々との闘いは、避けられない。

また、既成の組織からは、それが豊かであればあるほど、そこで連続カイゼン型のPDCAで、少しでも確実に稼げる可能性があるので、新しいイノベ―ションには、攻撃されたとして受動的反撃症候群を発症する。

そのため、親プロジェクトや里親が必要となる。しかし、里親には、成長するにつれて、母体には免疫性の悪阻(つわり)が発現する。特に日本ではその傾向が強いと言われ、早い段階での母体からの独立が望ましいとの指摘がある。

また、デスラプイティブ・イノベ―ションは、一人では無理で、また1っ社では時間が掛り過ぎる。しかし、親組織には、専門家が居るが、むしろ専門家は、従来の技術の枠に捉われている場合があり、素人等多様な集合知が自律的に、しかし分散して活動できる場としての、まさに「愉快にして自由なる工場の建設」の精神でのマネジメントが必要である。

これは、トリニトロンでも、ベータでも、3.5インチMFDでもそして、半導体でもその回路でも、全て素人集団であった。

一方、イノベションでは、出井のいう5段階を進めるに従い経営資源や資金需要は増大する。
それまで得られたキャッシュとクレジットを如何にコンバインして、時にリスク資源も取り込んで、投資をするかも問われる。それがまた、命とりとなり兼ねないし、体力が落ちれば、他の生き物の餌になり兼ねない。

また、フェーズが進むほど高まる資源ニーズのため、パートナーとの連携が重要となる。しかしその一方、ステークフォルダーが多様になるほど、ベクトルを合わせるためのマネジメントの負担が増大する。

それを回避するためのうこうな手段が、目的工学による個別の小目的と社会の将来に向けての目的と、プロジェクトの達成目標としての中目的の、目的群のオーケストレーションである。

そして、パートナーとの連携は、囲い込みによる系列化や、資金によるM&A等のハードな手段ではなく、自律的で、多様で分散した”ソフト・アライアンス”の形態が望ましい。
ただ、それは、アドフォックで、永続的な関係でない、プロジェクト向けの形態である。それによって、最後の出口戦略は、まだシャープレイ値によるものくらいしかなく、今後検討が必要である

さて、本編では、ソニーの映像と画像メディアの進化の流れを追ってみたい。
それは、ディスプレイ・メディアと半導体との競争的で互生的な共進化の歴史でもあったように思われる。

映像や画像メディアとしてのディスプレイは、ヒトの心身から最も遠い所から届く信号を、視覚を通してヒトの心にメッセージとして直裁に届ける最も原始的なメディアでもある。
そして最も古くから鏡やメガネ等の技術の対象に見るように、ヒトが持つ心身の拡張欲求を満たす最も原始的なメディアであるとも言えよう。

ただ、ヒトの眼の持つ基本的な”解像密度”と”感知空間のサイズ”という2個の独立した特性があることまでの理解は、つい最近まで、なかなか進まなかった。
そしてまた、それらの信号の獲得と増幅や補正等の信号処理に関する、半導体の機能や性能の進化にとって、常に壁となり、ブレークスルーの対象ともなり、進化して初めてその用途と用法が獲得でき、理解できたのであった。

こうした”映像”や”画像”のメディアタイプとして、エンタメの感性的データから文章や画像等の理性的データに至るまでの領域を広くカバーできる技術を進化させ、用途と用法を拡張することで、ヒトと情報を繋ぐチャンネルを拡大してきた。
こうして人びとが理解したディスプレイ・メディアの新しい用途と用法が確立した新しい様式と社会との共進化を見て行きたい。

実は、この領域こそ、ソニーの実質的初代の社長であった井深大が、最も注力したメディアタイプであったように思われる。

また、世界に先駆けて、半導体のイノベーションを、親プロジェクトのディスプレイ・メディアのイノベーションを引張り上げ、それがソリッドステート・サイエンスの基礎科学分野を開拓し、メディア・ライフスタイルを進化させ、今日のICT時代を切り拓いた進化の物語でもあると言っても良いように思われる。


1◇ マイクロテレビと半導体は共進化した

トリニトロンは、ソニーの創業者であった井深大の渾身の力を傾けて取り組んだイノベーション・プロジェクトの1つであった。
それはまた、技術の裾野が鉄やガラスやプラスチック、そして半導体に至るまでの裾野が広い典型的な工業製品時代のコア・テクノロジーのイノベーションを伴うものであった。

1.1 ソニーは半導体の用途をメディアに絞り進化させた

ソニーは半導体の用途をメディアの発展に向けて、10年ごとに進化させた。
ソニーは、視聴覚メディア産業への参入に際し、最初から1貫し途切れることなく、”半導体”と”磁気”と”光”の技術と、その信号とデータ処理技術による”世界初”のイノベーションにこだわり続けたのでった。

その挑戦は、日本の終戦の1945年に活動を始めたソニーと、ほぼ同時期の1947年に発明されたトランジスタとが、シンクロする形で、約10年間づつ繋がるイノベーション活動であった:
1期(1955-):トランジスタ・ラジオとゲルマの半導体
2期(1965-):トランジスタ・白黒テレビ、トランジスタ・カラーテレビとシリコンの半導体
3期(1975-):ベータマックス・トランジスタ・VTRとバイポーラIC半導体
4期(1985-):1980年3.5インチFD・磁気記録とデータ処理
5期(1995-):CDとDVDとデジタル・ネットワーク。

トランジスタという半導体が存在するという現象が発見されたのは、1947年12月のベル研究所でのクリスマスに近い16日のそれはまさに、天からの贈り物であった。
その理論の考察が開始され、原理試作が完成したのは、2年後の1949年、ベル研での発明であった。
試作に立ち会ったのは、J.バーディーンと、W. ブラッティンで、その現象の発見に立ち会うことができなかった上司のショックレイであった。この3人は、後にノーベル賞に輝いた。そして、現在数百兆円とも言われる経済価値と現在社会を支えているICTの基礎を作ったのである。

第1期は、1955年から始まるトランジスタというコア技術をゲルマのトランジスタというコア・デバイスに仕上げ、その用途を音声のラジオ受信システムにマッチングさせたのは、東通工、後のソニーであった。
これによって、電気産業の傍らに派生した新しい電子産業が開拓された。そして、”ソリッドステート・サイエンス”という基礎科学分野が創設されることに繋がったのである。

第2期は、1965年から始まるシリコンのトランジスタというコア・デバイスによる、映像の受信システムであった。
それによって、日本はソニーを始めとして、欧米の巨大な電気メーカに比肩できるコンスーマ向け電子製品のポジョンを得た。
今から考えると、基礎科学があってそこから応用技術が開発されたのではないかと思いがちであるが、この領域でも水蒸気やガソリンエンジンや飛行機等の技術領域と同様、いわゆる基礎科学から積み上げられたリニアモデルでは無かったのである。

第3期は、1975年から始まったバイポーラICと磁気記録をコア・デバイスとする映像の記録再生メディアであった。つまりベータマックスである。
この段階で、日本の民生用電子製品は、欧米の企業を壊滅させてしまった。こうした一連の流れは、電気産業から電子産業へのパラダイムシフトであった。
これが、アメリカの経済を追い詰め、日本は技術覇権戦争に巻き込まれて行くことになった。技術で後れを取った欧米から、基礎研究に対するフリーライドとされ、ジャパン・バッシングのキャンペーンと共に、Japan Inc.:日本株式会社論で、技術封じ込め戦略により、日本は現在の”基礎研究至上主義”への流れを余儀なくされた。

第4期は、1980年からCMOS半導体がコア技術となり、デジタルチップとCPUがコア・デバイスとなって、ICTをコア技術とする情報機器が、アメリカから急速に発展を始めた。
急速に進化する半導体のレイヤーと、ゆっくりしたヒトの対応のレイヤーとをスムースに繋ぐOSがこうした進化の緩衝体ともまりまたボトルネックともなって、これらのデジタル技術のデファクト・スタンダードが、技術覇権のコア技術となった。
各種のローカルなクライアント・サーバ系とネットワークが普及し、これらの両端のデバイスを構成する半導体の進化がこれを加速した。
こうして、アメリカは、大幅にドルを切り下げると共に、技術覇権でのリーダシップを取り戻したのである。

第5期は、1995年、デジタル・ネットワークがコア技術となり、情報処理と知識処理の時代となって、ローカルなネットワークを繋ぐ、ネットワークのネットワークとして、アメリカからインターネットが出現し、ネットワーク自身が急速に進化した時代である。
世界は取引やマーケトが国境を超えて平坦となり、直統合型ビジネスモデルが崩れ、ICTがカバーする領域から世界的な水平型社会分業によるメガ・コンペチションのビジネスモデルの時代が到来した。
そして、いわゆる独占企業戦略の時代に突入したのである。
眼に見える物にこだわり垂直統合に拘わり、基礎科学研究にこだわって、データ処理技術や標準化技術に疎かった日本の遅れが際立ってきた。
そして中国の台頭が際立って、アメリカと中国とが強硬な技術覇権競争戦略をとり始めたことが、誰の眼にも明確となってきた。


1.2 日本の産業技術基盤:I.E.はゼロからの出発だった
 
トランジスタの現象が発見された1947年は、ちょうど日本で戦後憲法が制定された年である。
しかしアメリカは、東西冷戦の緊張が高まるなか、日本を再軍備させるために、GHQ内部で分裂が起き、マッカーサが邪魔になって、本国に召還した。その理由として、東京大学の嵯峨根遼吉博士のサイコロトロンを東京湾に沈めたとして、マッカーサは議会で聴聞会に掛けられた。
トランジスタのプロトタイプが開発されたのが1948年で、翌々年、日本は警察予備隊が設けられ、南北朝鮮戦争が勃発している。

こうしたなか、日本に対し、国の再建のために、食料支援が迫られていた。欧州には、1947年から100億ドルを超えるマーシャルプランが実施されたが、日本に対しては、小麦粉やスキムミルクが支給され、そして、朝鮮戦争が勃発すると国連軍の兵站物資の補給を任され、膨大な資金が流れ込んできた。
そして何より官民一体となった技術供与が与えられたのである。

GHQは、占領下の統治を全うするために必要であった日本全国の通信インフラの充実が急務であった。
そのため、標準化と品質管理の技術教育訓練プログラムが実施された。
そもそも、I.E.:Industoral Engineering (産業技術)はの主要分野は、QCD:Quality, Cost, Deliveryであると言われる。ただ、その基礎的な"データ分析"と"標準化"と"マネジメント"に関係する技術と思想が欠かせない。
アメリカでは、最も尊敬される職業の1つに5分野のP.E.:  Professional Engineerがある。I.E.は、その中でも共通に求められている基本的な技術分野が含まれている。
日本の産業技術としてのI.E.は、この研修会から始まったと言ってよい。

この研修会には、当初サラソン等が、標準化技術の講義をした。日本からの参加者は、通産省の技官の相場弘一、統計数理研究所の坂本平八、日本電気の小林宏治等の産官学からその後の日本の品質管理のリーダとなる人々であった。
これには、ベル研の統計的品質管理の創始者であるシューハートの愛弟子のデミングが、遅れて参加している。

特に日本の通信インフラは脆弱であった。電話線を一定間隔で中継するためのリピータ:増幅器に使われていた真空管がよく切れたのである。
またこの真空管を取り換えるとその調整のために、コイルや抵抗器等を選択して組立て調整をし直す必要があった。つまり、真空管の信頼性にも問題が有ったが、互換性技術にも問題があったからである。

アメリカでは、フォードが自動車を大量生産するために開発したのが、部品の互換性という基本的な標準化技術であった。
日本人は日本刀のような1本づつを鍛えたり調整したり仕上げたりする技能を大切にしていたが、標準化技術やデータに基づく品質管理技術が全く遅れていたのである。
逆に、この仕上げ、鍛え、調整、という作業は、最も標準化し難い工程であった。

たとえば、日本のゼロ戦の性能は優秀であったが、部品は現場現物合せで、アルミ部材を叩いたり引き伸ばして、鋲止めをしていた。これは今でも科学技術博物館の現物で目の当たりにすることができる。
アメリカでは、B29爆撃機を、まるでハンバーガをポンポン焼くように大量生産するラインができていたのである。
長崎の原爆投下の時に撒かれた、”親愛なる嵯峨根遼吉教授へ”と書かれた友人達からのビラには、”貴君なら、我々がこの原爆の大量生産体制ができていることを理解できるだろうから、日本政府に伝えてくれ”と書かれてあったのである。

つまり、工業の基盤技術は、”統計的データ管理技術”と”それに基づく標準化技術”であったが、日本ではこれに関する技術は国家機関が独占し、大学の学部や学科の設立はできなかったのである。(これは現在でも似た状況である)

このGHQの講習会を受けて、日本の標準化の研究開発と技術標準を推進するために工業技術院が設けられ、JIS:日本産業技術標準の制定が進めらることになった。
これが日本のモノ作り産業を立ち上げるのに大きな力となった。特に始めは、動力源を人力とする、ミシン、時計、オルゴール、カメラ、顕微鏡、自転車等の組立て産業で、少ない原材料で、卓上旋盤等も開発し、国際競争力を持った精密加工力を発揮し、外貨を稼いだのである。


1.3 ソニーと神戸工業は半導体で繋がっていた

当時、この電話の中継用の小型真空管を製造し供給していたのが、神戸工業だった。その常務の佐々木正は、GHQからウエスタン・エレクトリック社で研修を受けるように求められた。
佐々木は、技術的な問題については、AT&Tのベル研を訪れて、質問や議論をしていた。ベル研は、AT&Tの研究開発部門で、ウエスタン・エレクトリックは、その通信機器の製造部門だった。
実は、佐々木正は、トランジスタの現象が発見されるちょうど数日前に、当事者達と議論をしていたのであったが、彼らは特許化を急いでおり、慌ただしさは感じたという。
こうしたこともあって、神戸工業は、ソニーより早く、日本で最初のトランジスタの製造に成功したのである。

後に、ソニーと神戸工業との縁は、ソニーがCD:コンパクト・ディスクを開発する時に技術のボトルネックとなっていた半導体レーザのピックアップを、ソニーの事業部長だった出井伸之や技術部長の諏訪寿が、シャープの佐々木専務にコンタクトし、世界で最も進んでいたキー・デバイスの供給をしてもらうことができ製品化にこぎ着けたのである。

またその以前、ソニーがトランジスタ・ラジオを開発するとき、後にトンネルダイオードを発明する江崎玲奈を神戸工業から、引き抜いた。その江崎は、また松下電器からシリコン・とランジスタで活躍する三沢敏雄をソニーにリクルートしている。

ちょうどこの頃の1949年、アメリカの司法省は、AT&Tを独占禁止法で提訴したのである。
つまり、この政治的決定が、結果的に、ソニーに限らず、日本の再建のための大きな支援政策となったのである。


1.4 AT&Tは半導体と電話とのマッチング開発を目指した

半導体を発明したベル研究所の親企業であるAT&Tが、その用途として何を考えていたか、その歴史を振り返ってみよう。
ベル研究所は、AT&T:アメリカン テレフォン & テレグラフ カンパニーというアメリカの通信に関する巨大企業の研究開発部門である。
AT&Tは、その製造部門であるウェスタン・エレクトリック社と、本体の通信ネットワークのオペレイティング・サービスを提供している組織とから成っている。

1877年、19世紀におけるアメリカの大発明家でもあるグラハム・ベルが興したベル電話会社が前身で、1885年に世界初の長距離電話会社として発足した。
因みにベルが発明した電話の特許を買うのを拒否したのは、名門のウエスタン・ユニオンという電信会社であった。

これは、いわば無体物通貨のデジタル・データを使って、世界で初めて決済を始めた企業としても知られているが、アナログな音声には価値を認めなかったのである。
時は1871年だったが、それは奇しくもドルが合法的不換通貨が誕生する1971年のニクソンショックから、ちょうど100年前の出来事であった[11:ビットコインはチグリス川を漂う]。
つまりウエスタン・ユニオンは、デジタル通信でアメリカの市民戦争情報やそれに伴う金融関係情報が大きな価値と繋っていたのである。

ベル電話会社の社長となったセオドア・ニュートン・ヴェイルは、「ベルシステム」と呼ばれるベル電話会社で、機材製造から、市内交換から長距離交換までの独占を展開。ネットワーク”経済学におけるボトルネック独占”を見事に現実のものとした。
AT&Tは連邦政府と折衝の上1913年にキングズベリー協定を結び、「規制下の独占」と言われる事業の独占権を認められた。こうして翌年勃発した第一次世界大戦で、RCAと真空管の特許を囲い込むことに成功した。

そもそもベル電話会社が三極真空管を使ったリピータ増幅により、電話が約800マイルという非増幅での限界を超えて伝えることができるようになって大陸横断電話回線が開通できた。
また三極管により可能になった発明にはテレビ、Public Address(音声拡張スピーカ)システム、電気蓄音機、トーキー映画等もがある。

しかし真空管には、幾つかの欠点があった:
1) 原理的に熱電子源(フィラメントやヒーター)が必要で発熱し、消費電力が大きい。
2)フィラメントやヒータが発熱するため寿命が短い(数千時間程度)。
3) 真空管を駆動するには電力が必要で、これに用いる部品の小型化が難しく、またメカニカルな耐震性や耐衝撃性が脆弱である。

これらに加え、技術の観点からは、真空という外部に1気圧もの差がある不自然な状態であって、一般家庭に普及させるには、知識を集約したプラントの閉じこめられたプロセスの中でデバイスとして組成して提供されるしかない。

ベルは、こうした真空管の欠点を解決するため、研究部長は、半導体の研究開発の用途を電話へ絞っていたのである。
この半導体を発明したアナログの有線の電話の企業が、的うを絞った用途が、電話の交換機というスイッチをオン-オフさせるデジタルな機能をもったトランジスタにフォーカスしたことが、その先での発展に、ソニーと大きく異なる様相に至ったのである。

初期の電話の交換機では、申し込んだ話し手が望む相手の番号に人手で回線コードを差し込んで繋いで行く。それは地域から地域の各階層的なセンターを経てネットワークを完成させる仕組みであった。
やがてこれが、自動化して大きな1桁ごとのロータリー・ドラムにターレットを並べこれをモータでぶん回す交換機となった。
そしてさらに、よりスマートなクロスバー交換機になったが、まだガチャガチャとメカニカルに騒がしかった。またクロスバーの接点には白金接点を使っていたが、まだ次第に磨滅する構造をもっていて、やはり信頼性には問題があった。

1925年、社長ウォルター・グリフォードがベル研究所を設立した。
ベル研は、シューハートのPDCサイクルや管理図等の、I.E.に関する統計的品質管理のマネジメント技術を開発した。それを日本でPDCAサイクルに発展させたデミングは、その弟子である。また、それに激怒したシューハートとの仲を取り持ったのは、統計数理研究所の坂元平八であった。

またベル研は、FOM:フィギャー・オブ・メリット等の研究開発に関するの評価管理技術の開発も行っていた。
ソニーの岩間は、半導体の導入でウェスタン・エレクトリック社を訪れたとき、この考え方を学んで、ソニーにも導入した。これがトリニトロンの開発の方向性を決めた一因であったと思われる。

1947年12月にベル研で、世界初の半導体の現象が発見された。そして翌年この大きな半導体が発明されたことで、現在のICT革命の時代の幕が開けたのである。
これがやがて、日米の技術覇権戦争に繋っていったのである。

ショックレーらがトランジスタを始めたベル研の所長のケリーは、大きな方向性を出して、「これからは増幅はトランジスタだ。真空管ではだめだ」と言って始めさせたというのであったが、そのときはケリーにしろショックレーにしろ、用途は明確で電話のシステムであった。
また、当時ソ連との冷戦の最中、ミサイル、人工衛星やメインフレーム・コンピュータもあった。
しかし機械的ショックに強い半導体は、シリコン・トランジスタも含めいわゆる国やインスティチューション等の機関向けであった。

AT&TとRCAや、ソニー等の日本勢の発明の競争の詳細を次に見て行くが、この競争には、大きく日米の政治経済情勢も深く関わっていたのである。

半導体現象が発見され、試作品ができた翌1949年、司法省が独占禁止法で、AT&Tを提訴した。機材製造部門のウェスタン・エレクトリックをAT&T系列から引き剥がしに掛ったが、結局、1956年、その分離は結審により見送られた。
ただ、AT&Tは、ウェスタン・エレクトリックを失わないため、所有特許のアメリカ国内の競合企業への非排他的な無償ライセンス供与が義務づけられた。
その見返りとして、ウェスタン・エレクトリックはアメリカ国内の一般市場での半導体の販売は禁じられ、AT&T向け使用のみに限定された。また、AT&Tの事業分野は公衆通信サービスに限定された。
これに伴い、半導体の特許やその技術供与は、海外に向けては有償でのビジネスだけが可能となった。実際、これが、日本の電気産業に大きな幸運をもたらしたのである。

その後のこととなるが、1984年1月1日、AT&Tは基本的に長距離交換部門だけを持つ電話会社となり、それ以外の事業は会社分割された。
これにより、地域電話部門は地域ベル電話会社8社へと分離された。これは、地上の通信ケーブルビジネスが、地域独占となることからの、自由競争の確保のためであった。
また、ベル研究所も、AT&Tの機材製造・研究開発子会社、AT&Tテクノロジーズ(旧ウェスタン・エレクトリック)の傘下に置かれ、AT&T本体から分離された。
合衆国の電話産業は市場競争へと開放され、特に長距離部門ではMCIやスプリントなどの大手長距離電話会社の成長を見ることになる。

そして1990年代後半、AT&Tは大手ケーブル会社のTCI、メディアワンを相次いで買収、ケーブル施設を全国に保有し、その施設を通じた高速インターネット通信事業においても大手事業者となった。なおTCIも、有線テレビのシステムオペレータであり、地域独占傾向のため、規制を受けているが、最もアグレッシブなケーブルオペレータである。
さらに、1995年、サウスウェスタン・ベルが、「SBCコミュニケーションズ」に改名。1996年にパシフィック・テレシス、1997年にサザン・ニューイングランド・テレフォン、1999年にアメリテックを合併吸収して巨大化している。
2001年の企業再構築により、旧TCIのメディア部門であったリバティメディアがスピンオフし、AT&Tは、AT&Tワイヤレス、AT&Tブロードバンド(ケーブルTV & ケーブルインターネット)、AT&Tコンシューマー、AT&Tビジネスの四事業体制となる。
2002年には、AT&Tブロードバンドは、ケーブルテレビ事業大手のコムキャストに買収されて、AT&T本体に残るのは、昔からある長距離通信事業のみとなった。

ただ、ベル研からは、ゲルマやシリコンの半導体の多くの製法や構造、半導体から派生した半導体レーザ、そして、電子の眼となるCCD等の現在も使われる極めて多くのコア技術が開発された。
その多くを、日本の企業がスジの良い用途とマッチングさせ、コア・デバイスやその製造プロセスを開発し、コア・プロダクツを開発し続け、市場を造って行ったのである。

そして、名門ベル研もまた、AT&Tの下で、アメリカ本国向けのテレビ製品や半導体などの部品の製造販売をするウエスティングハウスと、役割分担し、半導体とテレビに関する特許権やその技術指導のロイアルティを主な収益源とする研究開発に特化した企業となり、日本勢との競争の前に、遂に消滅して行くことになった。


1.5 RCAは半導体と放送とのマッチング開発を目指した

20世紀は、映像の世紀であったと言われる。この動く映像に関する技術は、アメリカのRCAという企業もまたその貢献を抜きには、語ることができない。

有線と無線によるコミュニケーションは、その周波数のピッチを上げ、よりリアルな音声へ、そしてリアルな動く映像信号へと進化し、さらに周波数を上げて文字や表や図面や画像データまで表現できるように、半導体やディスプレイデバイス等と共に進化し続けてきた。

無線のアナログの映像メディアの電子化に貢献した半導体の技術についても、RCAの貢献を抜きに語ることはできない。この映像メディアのいわば生みの母とも言えるRCAの数奇な歴史を振りかえってみよう。

古く1912年の三極管の増幅能力の発見は、電気技術に革命を起こし、能動(増幅)電気機器の技術という電子工学の新たな分野を生み出した。
三極管はすぐに通信の多くの分野に適用された。三極管による連続波の無線送信機は、振幅変調(AM)による音声の伝送を可能にした。

増幅三極管無線受信機は、拡声器を駆動するパワーを持っていたため、イヤホンで聴かなくてはならなかった弱い鉱石ラジオに取って代わり、家族で一緒に聴くことを可能にした。
これによりラジオは商用のメッセージサービスから最初のマスコミュニケーションメディアへと進化し、1920年ごろにラジオ放送が始まった。

映像というメディアも、やはりエディソンによってフィルムを使った映画のフィルムインダストリーという新産業として切り拓かれた。
これを電子化し、空中に無線で放射つまりラジエーションするテレビ放送というシステムを開発し広く社会に開放したのは、その名もRCA: Radio Corporation of America (ラジオ会社アメリカ)である。
その創業者であるアルフレッド・サーノフは、少年時代に無線によるツー・トンの2値のデジタル信号を使った個人間通信、今でいうP2P(ピア・ツー・ピア:個人対個人)通信の趣味に没頭していた。
因みに、ツー・トンの2値のデジタル信号を使ったケーブルによる電信サービスは、前述のウエスタン・ユニオンがほぼ独占しており、ベルの電話の特許の売り込みも拒否した会社だった。

サーノフ少年は、新聞売り、新聞配達などでお金を稼ぎ、それを元手にニューススタンドを購入した。新聞の小売に携わっていたことから新聞社に就職の面接に行くが、間違えて同じビルの別会社コマーシャル・ケーブル・カンパニーを訪れる。そこで電報配達として雇われるが、そこで電報の送受信について独学で学び、その後別のアメリカ・マルコーニ無線通信社に移る。その給仕として働きながら取り扱う通信文や契約書を読み込み、自分の働く会社の事業について学んで、電信技士に昇進した。

サーノフ少年は、1912年タイタニック号沈没の事件を、趣味の無線で知り、アメリカ大陸から大西洋に発信した。
それを受けた幾つかの船が中継し、何人かが救済されたという。このタイタニック号の事件がきっかけで船舶における無線の通信技術が重要視され、やがて贅沢品だったラジオが必需品となる。
1914年第一次世界大戦で無線通信がより重要視されるようになり、アメリカ海軍が無線の発達に不可欠な最新技術を開発するための企業RCAが1919年に設立されサーノフはここに移った。

1923年ピッツバーグで広告付きのラジオ放送が始まるとこれが急速に広がった。
ボクシング中継の影響もあり、ラジオが爆発的に売れ始め、1926年には売上高が2億7千万ドルにも及んだ。RCAは早くからラジオに目をつけていたこともあり、市場の大部分を独占した。
そして同年、ラジオの全国放送を実現するために全国規模のラジオ・ネットワーク作り、その役割を担う会社としてNBCを設立し、翌年には全米放送を実現させた。NBCは、現在でもテレビ放送に関する全米の3大ネットワークの1つである。

ワーナー・ブラザーズ(映画会社)が無声映画に音声を加えたことをきっかけにサーノフは映画業界にも進出し、またRCA・ビクターを設立し、レコード業界へも進出した。
そして、1932年にそれまでRCAはGEという会社の子会社であったが、独立した。
そして遂に。1939年ニューヨークで開かれた世界博覧においてテレビという新しいメディアを提唱した。

しかし、戦後のアメリカの1946年の独占禁止法の適応の影響は、この名門RCAにも厳しい運命をもたらしたのである。
1954年カラーテレビを発表し、撮像システムから放送システム、そしてブラウン管を含むカラーテレビに関する全ての技術を開発し、特許化した。

放送システムが、各国の国家の安全保証と基幹技術に関わることから、世界の各国は独自のフォーマットの開発を急いだ。
フランスとソビエトが組んでセカム・フォーマットを開発し、ドイツとオランダとUKは、ヨウロッパの全土からアフリカ、南アメリカそして中国にまでPAL・フォーマットを開発し囲い込みに成功した。
アメリカはRCAが開発したNTSCフォーマットを、本国と第2次大戦で占領した日本、台湾、韓国、フィリッピンと及びカリブ海の一部しか抑えられなかった。
このヨーロッパの成功体験は、EUの発足の強い動機付けとなった。こうして、世界は、3のブロックに分割された。

とはいえ、ブラウン管を含む受像機システムの技術だけは、RCAによるシャドウマスク方式がデファクト・スタンダードとなって、ほぼ全世界を制覇した。
ただ、無謀にもこれに刃向ったのは、ソビエト連邦と東京五反田のソニーというベンチャーだけであった。両者は独立に、同じクロマトロン方式に目をつけその量産化開発に挑戦したのである。

しかし、1958年、アメリカの司法省は、RCAが取ってきた包括的ライセンス契約は、違法であるとしたのである。
RCAは、1920年代から、無線に関する特許について、「包括的ライセンス契約」という閉鎖的な契約方式をとっていた。無線を使いたければ、RCAの個別の特許に関して個々に結ばなくても、必要な権利を丸ごと購入契約をせよと言う方式である。
この特許使用料は、RCAの主要な収入源となり、それがテレビ方式等の新製品の開発に当てられた。
1958年の裁定以降、RCAは、アメリカ国内の企業に対し、テレビの特許を無償で提供しなければならなくなった。しかし、この同意審決には、海外の企業との包括的ライセンス契約を制限する条項は一切なかった。

RCA会長のサーノフは、海外への技術移転の売り込みを積極的に進めた。そして、AT&Tと同様RCAも、自ら海外市場への製品進出をしない決定を下し、ライセンス販売ビジネスに力を入れることになった。

1960年頃には、それらのビジネスにおける日本の比率は、既にRCAの80%を占めるまでになっていたという。
RCAは、テレビの受信用ブラウン管のについては、日本の3社に対して、技術援助契約まで結び、トランジスタについては、別の4社と同様な契約を結んでいた。技術援助契約は、製造法に関するノウハウを公開するものであった。

サーノフが、60年代に訪日した折には、池田勇人首相が出迎え、帝国ホテルで、500名が出席するパーティが開催され、彼は、天皇陛下から旭日勲三等章を授与された。
通産省は、このシャドウマスクのブラウン管の製造プロセスを日本国内で確立するため、国が主要と見なす13の大手企業を集め、協同研究プロジェクトを組織し支援した。
もちろん、ソニー等の中小企業やベンチャーには声も掛けられなかった。ただ、そこから外された企業群が、後のトリニトロン・プロジェクトに、ソフト・アライアンスを組んで、参加したのである。

例えば、そこでシャドウマスクのエッチングプロセスの開発を担当した大日本印刷は、NHKのプロジェクトXでも取り上げられた。
しかし、RCAとの包括ライセンス契約には、バックビーの連続エッチングするための製法特許は含まれていなかったのである。
トリニトロンブラウン管を開発したソニー以外は、RCAに加え、バックビー等の部品に対する特許料も負担する必要があったのである。

ソニーも、RCAから包括的なラセンス契約の売り込みを受けて担当の後に常務となる宮本敏夫は、余りの執拗な姿勢にへきえきしたと語っている。
ただ、このライセンス営業の交渉の場の経験は、後のベータマックスのVHS陣営へのライセンス交渉に際し貴重な経験となったと思われる。
とにかく日本には、特許の売買に関する市場が無く、売れる強い特許を書いたり、特許を売りこんだ経験がある弁理士がほとんど育っていないと言う現実が、いまだに日本の技術の後進性を物語っている。日本は防衛的な特許ばかりで、強い基本特許の書き方を知らないと、GAFAMから指摘される現実がある。

しかし、RCAのこうした特許の売買というビジネスモデルは、その内部で矛盾を大きくして行った。
RCAの研究開発や製造部隊とライセンス販売陣営とは、好悪相反するアンビバレントな感情を増幅させていた。
前者がいくら頑張っても、やがて日本勢がアメリカ市場に雪崩込んでくるのに手を貸すことになって自分達の首を絞めてしまう。

開発した成果を売りこんでマネー化してくれる反面、特許の有効期限が残りが少なくなると価値も低減する。ライセンス契約は5年ごとに契約を更新することになっているが、研究開発や製造技術が進展していることをライセンシーに売りこむため、次第に将来の手の内までさらすようになってきた。それがますます、自らを苦しめる結果となっていったからである。
おまけに、技術の売り込みには、しばしば、技術者の同行が求められたが、ライセンス担当がファーストクラスで技術者はエコノミークラスといった状況になって、報酬額の差ばかりでなく、身分制度にまで差が生じるようになっていったのである。

また、日本勢は、モノ作りの改善で力をつけ、RCAの技術の価値が少なくなって行ったこともある。
技術者が幾ら良い仕事をしても、そして会社の将来も、共に特許の連中に売る払われてしまうのではないか、という気分が広がっていったのである。
おまけに、1958年の同意審決の結果、RCAの製造部門も他の企業と同様に、特許管理部門にライセンス料を支払うことになってしまったのである。

こうしたロイアルティ収入に頼る体制は、1985年まで続いたが、名門RCAは、アメリカ本国向けのテレビ製品や半導体などの部品の製造販売よりも、半導体とテレビに関する特許権やその技術指導のロイアルティを主な収益源とする研究開発に特化した企業となっていった。
やがて、日本勢との競争の前に、衰弱して行った。RCAは、遂にGEに買収され消滅した。ただRCAのブランド名だけが残されている。
そのGEのコンスーマエレクトロニクス部門もまた、フランスのトムソンに売られ、トムソンもまたそれを韓国のサムソンに売ってしまった。彼らのブランド名を持った”ウオークマン”も、そうした生々流転の命運をたどることになったのである。

しかし、名門RCAが残した発明は、マイクロチップの画期的構成と製造法であるCMOS、またブラウン管を駆逐した液晶、そしてアモルファス・シリコンによる太陽光発電パネル等である。
そしてこれらの多くのコア技術が、ベル研のコア技術と同様、日本の企業によって、”スジの良い用途が開発”され、コアデバイスやその製造プロセスの開発と、コア・プロダクツを開発され、さらに市場が開発され、大きな産業となっていったのである。

1995年デジタル・ネットワークがコア技術となり、情報処理と知識処理の時代となって、市場が国境を越えグローバルに広がると、メガ・コンペチションの時代になって、インテルやマイクロソフト、そして台湾や韓国、中国勢がそれぞれの分野でリーダーシップを握るようになってきた。

こうしたいわば大情報化時代になると、知識を生み出す情報やその元となるデータが重要な価値の源泉となった。
そして、そのデータは、生活者つまり大衆的顧客と企業が言うコンスーマを囲い込むものが勝者として、つまりプラットフォーマとして独占的拠点を設け、そこから競争を闘う、言わば「独占的競争」状態を如何に調整すべきかが、極めて重要な国家政策のの課題となってきた。

例えば、ポール・ローマの思想的な流れを汲むと言われる、米コロンビア大学准教授のリナ・カーン氏(32)を、バイデン大統領は、2021年にUSの米連邦取引委員会(FTC)の委員長にを指名した。
バイデン氏の指名に先立ち、議会上院(定数100)が同日、賛成69票、反対28票でカーン氏がFTC委員に就く人事案を承認した。与党・民主党の出席議員全員に加え、野党・共和党から21人が賛成した。カーン氏は宣誓を経て委員に就いた。
反トラスト法(独占禁止法)の規制強化を唱える左派の学者で、米巨大IT(情報技術)企業に厳しい姿勢で臨むとみられている。

委員の任期は2024年9月までで、米メディアによると、FTC委員、同委員長のいずれのポストでも最年少の就任となる。
カーン氏は17年、安値攻勢をしかけるアマゾン・ドット・コムの競争上の問題点を批判する論文で注目を集めた。下院司法委員会がグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの独禁法違反を指摘した20年の調査報告書にも携わったといわれる。

産業界は、従来の垂直統合型から、水平分業型への形態へと変化した。またそれは、国内型からグローバル型の市場の拡大であった。
そして、決済手段としての通貨が、各国の中での徴税と配布を仕切る国別の通貨が、金本位性から切り離されてより民主化された為替の自由化によってももたらされた。そしてさらに暗号通貨が、新たに決済手段の民主化とでもいう現象を起こしつつある。
この市場の拡大と決済手段の平坦化は、アダムスミスの指摘した分業化が進む2つの条件であった。

ただ、分業化が進化するには、もう一つ、分業を統合するためのインターフェース技術の進展という要因を欠かすことはできない。
この技術は、大きく互換性の技術と言われるが、分業による産業革命をもたらしたフォードがそれを実現した。
それは、そのインターフェースの技術的側面自体も進化させる性質を持つが、それが、実はそのインターフェースを挟む、上下の分業産業の進化をも自由にさせるのである。
さらに、その自由に進化できる領域のダイナミックな、自己創発するメカニズムを支配してさえも居るのである。

そしてこうした通信フォーマットのデファクト・スタンダードを確立しつつ、その関連特許をいわば独占し続けるビジネスモデルは、現在でも、各国の国家安全保障政策としても、技術振興政策上の極めて重要な論点となっている。


1.6 SONYはゲルマの半導体の用途をラジオに絞った 

ソニーが、半導体というコア技術を、メディアとしての用途や用法を様式にまで進化させた系譜をたどってみたい。
特にトランジスタ・ラジオから始まり、マイクロテレビという世界初のトランジスタテレビに至る、また、トリニトロンという世界初のトランジスタ・カラーテレビまでのソニーが挑戦したターゲットと、その電子回路を構成する能動素子としての半導体の機能と構成の進化の系譜をたどってみたい。


1)  井深は自由闊達にして愉快な場に半導体を選択

それは、まずラジオ放送の受信機としてのトランジスタ・ラジオへの挑戦から始まった。
日本には、基礎研究をやれば、技術力が付くという根強い神話がある。それは、1985年にアメリカによる”リニア型モデル”というプロパガンダに依るもので、”すべからく技術やイノベ―ションというものは基礎研究から始まるべし”、とのいわば基礎研究原理主義から始まっている。
しかし、話しは全く逆で、半導体の進化でも、あくまで”ターゲット・ドリブン型モデル”が、ソリッドステート・サイエンスという基礎科学を引き上げ、育てたのである。

例えば、USのベルラボで開発されたトランジスタの極めて有効な用途をターゲットとして開発に成功し、半導体をスタートアップさせたのは、戦後の五反田のベンチャーだったソニーである。
アメリカとソニーとの半導体の開発での差が出たのは、まさにこうした用途の設定の違いによるものであった。そしてそれが、ソリッドステート・サイエンスという学問分野を育てたと言っても良い。

ソニーの前身である東通工を7人で創業した井深大は、創業して間もなく、盛田昭夫を引き込むことに成功する。そして盛田昭夫は、実弟の盛田正明と義弟になる岩間和夫を引き込んだ。まだ、日本の戦後を迎えた直後のことであった。
井深は、大勢の優秀な電気や機械工学の学卒を抱えて、開発プロジェクトのテーマ設定に悩んで、NYのホテルのベットで寝もやらず転々としていたとき、トランジスタの特許が公開されるというニュースを耳にしたのである。
テープレコーダは、出来たが、市場を開拓するのに苦労していた。井深は、これを使ってラジオを開発しようと決心した。

ただ、通産省から貴重な外貨をソニーのようなベンチャーがそれも基本特許の実施ライセンス権だけを手に入れるのに使っても無駄になると反対された。盛田は、通産省の課長に合うために菓子折りを持って、まず係長に顔を繋いだという。
やがて通産省の担当課長が転出して、基本特許の実施ライセンス権が手に入ったとき、ソニーは、他社のように技術支援契約までは買うことができなかったので、その基本情報から手探りで開発を始めなければならなかった。
多くの市民が使うためには、安く、大量に、良いデバイスでなければならない。それは、アメリカが想定したような電話交換機のような機関や組織が使うB2Bの大型製品とは、全く異なった要求仕様となったのである。

井深は、コア技術をトランジスタとして設定し、その用途、サービスターゲットをラジオ受信機に絞ったのである。それにより、トランジスタへの有効な要求仕様が明確になって行った。
ソニーは、真空管の欠点を克服する半導体に、”スジの良さ”を見通した。その実現性と用途に対し、”テクノロジー・イマジネーション”を逞しくする構想力を持っていたと言えよう。
これらの欠点の克服こそ、エネルギーや物質やヒト努力の不確実性を軽減する情報、つまり技術が持つ力を観ていたと言うことであろう。
ただ、これを実現するデバイスの構造とそれを実現するプロセスとを開発することは、簡単では無かった。

また、銀行は、まだ市場も無いトランジスタ・ラジオや、そのための見たことも無いトランジスタに融資をしてくれなかった。
井深は、身内の太刀川家や小説家の野村胡堂に投資や融資のお願いに、押しの強い盛田を連れて行ったという。
三井銀行からは、「トランジスタというのは、真空管の代用品ですか」と言われたという。当時コメの代表品として、麦やサツマイモ、そして絹の代用品として人絹があった。代用品という言葉には、本物に替わる安物、偽物というイメージがあったのである。


2)  ゲルマのグローン型のトランジスタ製造法を開発

トランジスタの製法と構成は大きく、点接触型と合金型とグローン型の3種に分けられる。
ノーベル賞をもらったブラッデンラがウエスタン・エレクトリック社で製造しようとして苦心していたのは、ゲルマの結晶の表面に2本の針を近接してあちらこちらと探して良いところを見つけて突き刺して周波数特性の良いものを組み立てるというものだった。
この点接触型は生産する設備は簡単であったが、量産には全く向かなかった。残るは接合型とグローン型の2種類であった。

コア技術を研究開発する時、この用途の想定が、極めて重要となる。
ベルが想定した電話交換機のために電子化の開発が求められていたのは、スイッチの機能特性だった。そして、プロセスとデバイスの構成にも、合金型に注力して行ったのである。ただ、その量産法を実現するに至るまでの時間は長くかかることになった。

それに対しソニーは、その用途をラジオに集中していた。
そのためには、高い周波数への応答特性が重要であった。その結果、ソニーは早い段階でゲルマのグローン型に集中して行ったが、このターゲットの設定こそが、彼我の差を生むことになった。

また、日本勢の多くは、RCAやGE等からも技術支援契約を受けたため、アメリカ勢の技術指導を受けて合金型の方向に向かったのである。
これが初期のソニーと他社の立ち上がりの差に繋がったのである。

ソニーも当初は、点接触型という闇夜で手さぐりにピンポイントで組み立てるような構造を採用した。それは、製造する装置が簡単だったからである。
しかし、ソニーは、トップの岩間和夫と塚本哲男やプロセスの設備の設計の担当だった茜部資躬等の、いわば体験的集合知メカニズムによって、シリコンより融点が低いゲルマをるつぼで溶かして1インチ径の純粋な単結晶引き揚げてそれを輪切りのウエハーにするグローン型のトランジスタの製法に切り替えていったのである。
これが、ソニーの半導体に関する挑戦の第1のマイルストーンとなった。


3) 誤りだった特許ライセンスの情報をブレークスルー

ただ、グローン型で、高い周波数特性を得るのは、簡単では無かった。
このプロセスで半導体を構成するためには、トランジスタの発明と並ぶ発明や名人技も必要であった。
その最も難関だったのは、不純物の濃度のコントロールであった。当初ベル研やウェスタン・エレクトリックからの特許技術情報では、不純物は、アンチモンを使うこと、とされていたのである。

しかしそれは、全く役に立たない誤った技術情報であったことから始まっていた。
この不純物を別なものとし、その濃度をコントロールができるプロセスを完成させることで、初めてトランジスタが量産化でき、コンスーマ向けラジオの大量生産できたのである。

半導体をこのグローンのプロセスでNPNと言う3段構造を形作る必要がある。
グローンでは、まず熔かしたるつぼの中にタネとなるゲルマの結晶の粒を棒の先につけてそれを入れ、ぐるぐる回転しながら引き上げると円柱状の結晶や合金が飴のように成長してくる。
そして、このゲルマの引き上げの最初の段階で不純物を投入し、電子を放出するN層(マイナスの電子を含むネガティブ層)を造る必要がある。次に流れでる電子をコントロールするP層(ポジテジブ層)を造り、最後をまたN層としなくてはならない。

この最初のN型のゲルマをるつぼから引き上げ途中で、P型にするためるところでガリュームを不純物としてドープ(含ませる)しなくてはならない。さらに結晶を引き上げつつ最後にN型にアンチモンをドープするため投入するのである。
これが2重ドープとするグローン型のプロセスであった。

そのグローン不純物のアンチモンを入れてベース部を造るのだが、それが中々思うように多く入らない。歩留りは2~3%で、100個造っても、良品は2、3個しか取れない。
これでは、それまでやってきた加工組みたて精度を上げる接合型方式を磨き上げて行った方良いかも知れない。
ソニーも、当初はラジオ用に接合型でこの製造を開始していたのであった。

しかし岩間和夫と担当した塚本哲夫は、グローン型を諦めなかった。思い切って接合型で生産した在庫を貯め込んおいて、量産型の設備を投資し直し、プロセスをグローン型に切り替えたのである。
井深は、「歩留りが低くても良品ができるのだからそれを沢山す来れば良い」と、部下達には割り切った伝え方をしていた。
その一方、岩間や塚本には、”これでは会社がつぶれてしまう”と嘆いてもいた。

塚本は、ペニシリンの副反応で半年入院していたベットの中で、悩んでいた。
そして、ベル研からの特許であった不純物のアンチモンに変えて同じ4族のリンを入れる方法が閃いた。
これで上手く行った。しかし、だがリンはどんどん入って、今度はそれが入り過ぎて不良品になってしまう。
塚本は、悩んで一体リンは何所まで入るかを江崎玲於奈に調べるように頼んだ。

その答えが出る前に、塚本はリンの量を制御する方法を考えた。それが、また、大きな発明に繋がった。
ゲルマと同族のインジュームとリンの合金を造りそれをグローンの引き上げの最中に投げ込み、ゆっくり引き揚げながら冷却する方法であった。インジュームはゲルマと同族の電子価でゲルマの邪魔をしない。

そしてインジュームだけがゲルマの結晶から排斥され析出できる性質を持っていた。そしてその析出されたインジュームの量を電気的に計測する方法を電気回路屋の安田が開発した。つまり塩水を氷らせると塩が外に析出し真水の氷だけができる原理である。
そのための、温度や引き揚げの速さ等の時間プログラムを開発する必要があった。

これは、まさに、ゲルマとるつぼとそこから回転しながらゆっくりと引き揚げるプロセスに身を任せ、そこに相互主観参入した物理屋の塚本とその仲間達の大発明だったのである。
もちろん、そこには、似た実験をやっていた岩田や天谷等も居て、ドープする装置や電気計測する装置は、茜部や安田等のいわば、体験型集合知メカニズムの発現の一環でもあった。

例えば、安田は、終戦まで、井深と長野県の須坂の工場で、船体が発する熱線を検知し追撃するミサイル型の開発実験をやっていた仲間で、終戦の日の翌日にソニーを造るため上京した太刀川正三朗を追って間もなく上京した7人の侍の一人であった。
そして、数少ない電気屋として真空管とは全く異なるトランジスタ回路設計を用途に合わせ開発し、終生井深を支え続けたのであった。ただ彼は重い糖尿病があり、試作品の性能を皆で見守っているうちにゆっくりと仰向けに倒れてしまう。若い連中はそれを知っていて、後ろに回って見守り構えていたのであった。

当時、厚木工場では、薄く胴切りにスライスして、ダイヤモンドカッターで2ミリ角に罫書き傷を付け、平らな定盤の上に2枚の鹿の揉み皮で挟んで置き、牛乳瓶をゴロっと押して転がすと、ピシピシと1度にぱらぱらとトランジスタが大量に出来上がったのである。あとは、各電極に細い金線のリード線を圧着して繋ぐ顕微鏡を使った組立て作業となるだけであった。

このリード線を半導体の各層に熔着するには、顕微鏡を覗きながらの若い女の子向きの細かい根気の要る手作業であった。
ソニーは、主に福島と宮城と新潟と神奈川の中学卒の女性を募って集団就職させていた。
ただ、彼女らは、東京に就職できたと思ったが、五反田からバスで厚木に向かう途中、余りに寂しい山の方に行くので、びっくりして泣き出す子も居たという。しかし、そこには、何軒かの1戸建ての家が集合した村落を形成しており、各家に数人が同居して、台所で自炊ができた。そこで、お花や裁縫やお稽古ごとなどを身に着けることもできた。
やがて、彼女らは、自分達の手で高校を造り、それを卒業するようにまでなった。そして、何人かは、東京の大崎工場や品川工場に異動し、中にはフォートランのプログラミングやそのライブラリーを開発する者まで現れたのである。優秀だった。

彼女らは、トランジスタ・ガールと世間では呼ばれたが、どうすれば、歩留りが上るかを自主研究し、発表したり、エンジニア達と一体となって、歩留りを向上させた。
エンジニア達は、作業する彼女らの傍らにしゃがみ込んで、一緒に半導体に相互主観参入することで、情報共有を図った。
これは、言わば”体験型集合知メカニズム”の発現作用とでも言うべき場でもあった。

こうしたデバイスの物理構造と製造プロセスの構成の発明は、社会に変革をもたらした。まさに、”トランジスタが世界を変えた”のである。
こうして、世界で初めての大量生産が可能なトランジスタが関発されたのである。

やがて処理する周波数は、従来の3.000Kヘルツから、15,000~20,000Kヘルツに達し、トランジスタ・ラジオが量産できるようになったのである。
そして1957年、12月には、2T7トランジスタの高い周波数を活かしたトランジスタラジオは、月産5万個に達し世界で圧倒的なシェアーと言うべきか、独占体制を占め、まさに世界をリードしたのである。
ベル研でトランジスタが発明されてから10年の歳月の流れであった。

因みにグローン型でリンが入る限界を検討していた江崎は、それがトンネル効果によるものであると説明することで、ノーベル賞に繋がったのである。
ただ、そのリンが入り過ぎることによる不良品は全て、彼が自分の名前を付けた江崎ダーオードだったのである。こうした技術の歴史を説明した教科書やアーカイブが乏しいのであえて触れておきたい。